哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

畏敬の念

岩波文庫の『論理哲学論考』が面白い。ここには3人の人がいて、それぞれがそれぞれの考えを喋っている。ウィトゲンシュタインと、ラッセルと、野矢茂樹ウィトゲンシュタインがまず喋り、それを読んだラッセルが喋り、そして野矢茂樹が彼らの間で喋る。

野矢茂樹によれば、ラッセルは執筆中の著作に表れているある立場をウィトゲンシュタインに批判され、その批判を認めてその著作を断念したことがあるのだが、そのあとにラッセルが書いた『論理哲学論考』の解説で、その批判を認めたならば変わるはずのラッセルの立場が変わっていないように見える箇所がある。それについて野矢茂樹はこう言っている。

「もしこの箇所になお意味論を認識論に基づけようとするラッセルの立場がうかがえるのであるとしたら、ラッセルはウィトゲンシュタインが何を批判したのかを理解することなく、その批判に屈して一冊の本をとりやめたということになる。当時のラッセルがウィトゲンシュタインに抱いていた畏敬の念からすれば、そういうこともありうるかもしれない。」(p217 バードランド・ラッセルによる解説 訳注(3))

何を批判されたのか分かっていないのに本の出版をとりやめるほどの畏敬の念、何を言っているのか分かっていない(この箇所以外にも、ラッセルの書いた『論理哲学論考』の解説は全体としてウィトゲンシュタインから「誤解」と言われている)にもかかわらず畏敬の念を抱くこと、あるいはラッセルは自分が何を批判されたのか分かっていないことすら分かっていないのだろうか?

ラッセルのウィトゲンシュタインに対する畏敬の念、ちょっと興味ある。