哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

『ゲド戦記』を観た。

 映画『ゲド戦記』、見ました。

 「不安でいたくない」(正確な言い回しは忘れた)ということが、
「死んでしまいたい」(正確な言い回しは忘れた)ということと、
「永遠の命がほしい」(正確な言い回しは忘れた)ということの、
どちらにも通じている、というかその2つは結局同じことだ、ということ。

 「生きる」ということは、「不安でいる」ということなんだよな(ここでハイデガーが頭をよぎる……)。
 おそらく、一生、不安でいるということなんだよな。
 そして、それは悲しいことでは全くなくて、むしろ、それこそ、明るく生きるということ、なんだろうな。

 不安でいるということは、生きるということ、存在するということ、存在という表舞台に立ち続けるということ、身をさらし続けるということ(ここで中島みゆきの歌声が頭をよぎる……)。


 「不安でいていいんだ」とも思えるかな。
 「不安でいるのが当たり前なんだ、な〜んだ、安心した」みたいな。


 でも、不安であり続けるというのはけっこう難しいことだとは思う。
 たいてい、不安に蓋をして、何か適当なこと(仕事、恋愛、勉強、就活、趣味、宴会、テレビ、、、、)に没頭する。つまり逃避。
 まあ、不安に蓋をするために、というのが問題なのであって、何かに没頭してその結果として不安を「忘れる」というのは特に問題ない気がするけど。



 あと、テルーが牧草地の小さな丘みたいなところで歌っていて、それを聞いたアレンが泣くところ、「すごく、わかるな〜」って勝手に思った。
 わし的には、あのとき、アレンは「嬉しかった」んじゃないかなー、と思う。
 なんで嬉しかったんだろうな。なんでだろう。


 まあ、今後のわしの課題ということで。
 これから考えよう。

―――

追記(2018年12月14日)

「未規定的に確実な死へと先駆することにあって現存在は、じぶんの〈現〉そのものから発現してくる絶えざる脅かしに対して、みずからを開いている。おわりへとかかわる存在はこの脅かしのうちでじぶんを保持しなければならず、だからこの脅かしを遮断することがかなわない。それどころか、確実性の未規定的なありかたをむしろ完全に仕上げなければならないのである。この絶えざる脅かしを純正に開示することは、実存論的にどのようにして可能なのだろうか。すべての理解は情態的な理解である。気分によって現存在は、「現存在が現にそこに存在している」という被投性のまえにもたらされる。しかしながら不断の端的な脅かし、しかも現存在のもっとも固有な単独化された存在から立ちのぼってくる、現存在自身の脅かしを、開かれたまま保つことのできる情態性は不安である。不安という情態性のうちに現存在があるのは、じぶんの実存の可能的な不可能性という無のまえに置かれているときなのだ。不安は、このように規定されている存在者の存在可能のゆえに不安をおぼえるのであり、不安が開示するのはかくてそのもっとも極端な可能性である。先駆することによって現存在は端的に単独化され、現存在はこのじぶん自身の単独化のなかで、みずからの存在可能の全体性を確実なものとするにいたる。それゆえ、じぶんの根拠にもとづく現存在のこのような自己理解には、不安という根本的情態性がぞくしているのである。死へとかかわる存在とは、その本質からして不安である。」(ハイデガー著『存在と時間』(三)熊野純彦岩波文庫 2013年 第1刷 p201-202)