哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

全部話すこと

僕は、あらゆる存在を、「途中」の存在だと思っていると思う。

もし僕が、「間違った考え」をいま持っていたとしても、そのこと自体には何の問題もない。

「間違った考え」は、僕が生きていれば僕からにじみ出てくるだろうし、そうすればそれは批判に晒され、僕はその考えが間違っているのかもしれないと思い始め、検討・修正を行おうとするだろう。

それでいいのである。
「間違った考え」を持っている(いた)ことには、何の引け目も感じる必要はない(僕は感じてしまう性格だが)。

……

考えの検討・修正を行うには、その動機づけが重要である。検討・修正が人間の「行為」である限り、動機づけがなければそれは行われない。
「間違っている」ことが示されるだけでは、動機づけとして不十分なことがある(十分なこともある)。
考えが「間違っている」ことが示されたなら素直に考えを修正するべきだろう、と言われるかもしれないが(ちなみに、そう言われること自体が動機づけとして働くこともあるから、そんなこと言うなとは僕は全く思わない)、どういう状況でどんなことが起これば動機づけがなされるかは、様々であるのだから、仕方ない。

……

僕は、とにかく人と話す、という方法を取っているようだ。自分を動機づけするために意識的にそうしている、というわけではない。僕の性格・生き方が勝手に僕をそのように動かしている(つまり、僕を人と話させている)のだが、自分の考えを検討・修正する動機づけがなされるのは、その結果に過ぎない。
 
……
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例えば、アパートの隣の人から、「夜、もっと静かにしてくれ」と言われたとする。そこで僕は、「静かにはしたくない」と思ったとする。利害の不一致だ。利害の不一致は、できれば何らかの形で解消したい。できれば引っ越しまではしたくない。
僕はそこでどうしたいか。
僕は、とにかくその人と話したい。
とにかく、思っていることを全部話したい。
「騒いでるわけではなく電話しているだけなんだから」とか、「そもそもこんな安アパートに住むことを選択したんだからちょっとした物音くらい我慢しろ」とか、「あんたの顔が嫌い」とか(←これはないか😅)。
話のテーマと関係なさそうなことも、これ言ったら馬鹿だと思われるかなーということも、これ言ったら上から目線クソ野郎と思われるかなーということも、これ実際は僕自身思ってないような気もするということも(←思ってないかもしれないけど言葉にはしたい、ということがある)、できる限り、全部話したい。

全部話すとどうなるか。
不思議と上手くいくのである。(!)

まず、全部話すとスッキリする。
また、自分がはっきり言葉にしたことは、その時は「僕はそう思っている!」と思っていても、いざ言葉にすると、その後、徐々に、「いや、そうでもないかも」と考えが変わってくることが、なぜか多い。おそらく、言葉にして、自分の「外に出す」ことによって、その考えと自分とが距離を取れるようになり、ある程度客観視できるようになるからだろう。

そして、自分の感覚や行動が変容していく。
そして、具体的なそこにある問題(例えばアパートの騒音問題)解決にあたってどうすればいいかが「感覚的に」分かってくる。
身体が勝手にいい感じに動いてくれる。

対して、自分を抑えているとどうなるか。
一応、お互いの利害を侵害しないような取り決めをしたつもりになっても、「感覚的に」はまだ納得し切れていない。だから、いつまでももやもやが残る。自分のあり方(→感覚)と、取り決めの内容(→理性)との不一致が起こってしまうのだ。

自分を抑えずに話すと、自分の感覚が変容する。自分のあり方が変容する。そうすると、自分のあり方(→感覚)と、取り決めの内容(→理性)とに、不一致ができにくくなる。つまり、「自分の思い通り」になる(そして不思議と「相手の思い通り」にもなる)。まあ、自分を抑えずに全部話すことを、きちんと妥協せずに行えば、だけど。

……

自分を抑えずに全部を話すことは、非常に、身体的な行いであると思う(身体には理性も含まれている)。言い換えれば、その人の「全体」的な行いである。

だから、それは、自分の考えやあり方について検討・修正する動機づけに、「直接」、なる。動機づけとは、身体的現象だからだ。身体的な連続性が、「自分を抑えず全部話すこと」と、問題解決=自己変容(ついでに他者変容?)の動機づけとの間に、ある。

それは、ある程度、無意識的で、自己コントロールの外にある動機づけである。

「〇〇しよう!」と思って行うというより、
いつの間にかそうなっていた、いつの間にかその気になっていた、という感じである。


僕の場合、自分を変えようとするなら、この方法が効果的であるようだ。
自分を抑えずに全部話すこと。

プライドや恥ずかしさが邪魔をすることも多いけれど……

……
追記(2020年6月15日)

「対して、自分を抑えているとどうなるか。
一応、お互いの利害を侵害しないような取り決めをしたつもりになっても、「感覚的に」はまだ納得し切れていない。だから、いつまでももやもやが残る。自分のあり方(→感覚)と、取り決めの内容(→理性)との不一致が起こってしまうのだ。」

と書いた。
この不一致自体、このもやもや自体が、「不一致、もやもやを解消したい!」→「もっと正直に全部話したい!」という動機づけを生むよなぁと思った。