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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

批判と燃えること

 僕のツイッターアカウントのタイムラインをここ数週間見ていて思うことをまとめてみる。あくまでも「僕の」「タイムライン」を見た限りのことなので、現実の一部分しか捉えていないだろうけど。

  ここで問題にしたいのは、ざっくり言えば、「政府批判」と、その政府批判に対する批判つまり「政府批判批判」、という二種類の発言群についてだ。あえて発言の具体的内容についての言及はしないが、抽象化するなら、「政府のやり方はダメだ!」という「激しい」発言と、「政府を責めてどうすんだよ」という「冷静な」発言、というふうに言えるだろうか。

  まず「政府批判」について。僕は政治学や経済学についてほとんど無知と言っていいが、タイムラインを見る限り、あの「激しい」政府批判は、国民の【機能】としては適切に作用しているのではないか、と僕は思う。政府批判者当人たちも言っている、「声を上げなければ政府は動かない」「声を上げていなかったら、いま検討されているほどの補償はなかっただろう」というのは、おそらく、まずまずの程度正しいのだと思う。声を上げなければ政府が動かず、それによって困る国民がいるのだとすれば、「とにかく」声を上げることは、国民の果たすべき【機能】と言っていい。おそらくそれは、彼らの発言が内容的に多少おかしかったり、現状認識が多少誤っていたとしても、なのだと思う(具体的な政策内容を考案し運用するのは専門家の【機能】であって、一般の国民の【機能】ではないのだから)。国民の【機能】としては、「とにかく」、思うこと、感じること、不満や怒りを積極的に発言していくことは、適切である。

  一方、そのような「政府批判」を批判する、「政府批判批判」を行う人たちは「何」を批判しているのか。批判点は大きく二つあるような気がする。一つは「社会」的な点、すなわち、「あのような「激情的な」「猛り狂ったような」感情やパワーによって社会(国)が動いていくことは危険だ」ということ。もう一つは「個人」的な点、すなわち、「そんなことをしてあなたたち「幸せ」ですか?」ということ。そしておそらく、「社会」的な点と「個人」的な点を統合した批判として、以下のような批判がある。すなわち、「あなたの「幸せな生活」を奪っているのは、政府(国)ではない」=「あなたの「幸せな生活」を奪っているのは、あなた自身である」ということ。「政府のせいではない、あなた自身のせいだ」ということ。

  とは言え、「政府批判」をする人にも様々な人がいる。僕は大きく三つに分けられると思う。
  一つめは、「冷静な批判者」。この人たちは、「幸せな生活」は個人と社会の両方にかかっていると考え、自分自身に責任のある部分と国に責任のある部分をわきまえて、国に責任のある部分については批判する、という「態度」を取る。
  二つめは、「激情的な批判者」。この人たちは、(主観的には上記の「冷静な批判者」のつもりの人も多いだろうが)自分が不幸なのはとにかく「国がせいだ!」という方向に気持ちが傾いている。「自分自身のせい」とはあまり思わない。「国が変われば私たちの生活も変わる」と思っている。
  三つめは、「冷静かつ激情的な批判者」。この人たちは、一見、二つめの「激情的な批判者」と変わらないように見える。とにかく国を批判する。しかし、自分の不幸を国のせいには全くしていない。彼らは、自分の幸せは自分にかかっていると「完全に」思っている。そしてその存在の仕方において政府を批判するのである。だから、いくら政府を苛烈に批判しているように見えても、彼らは全く政府を恨んだり憎んだりはしていない。彼らは、外から見て「激情」しているだけでなく、おそらく彼自身も自分のことを「激情」していると感じている。しかし、自分の認識を超えた彼の存在全体としては、いたって「冷静」なのである。苛烈に政府を批判するけれど、自分の幸せが政府によって奪われているとは「全く」思っていない。
  一つめの「冷静な批判者」も二つめの「激情的な批判者」も、その批判は政府(国)に向いている。対して、三つめの「冷静かつ激情的な批判者」の場合、その批判は政府(国)に向いてはいない。もう少し詳しく言うならば、彼らの「言葉」は政府に向いている。批判の「内容」は政府に向いている。しかし、「感情」は政府に向いていない。「感情」はあくまでもその人において燃え上がっているだけである。別の側面から言い直そう。ある側面から見れば、彼らの「感情が」政府に向いているとも言える。しかし、感情が自分自身において燃えているという仕方で、政府に向いているのだ。つまり、結局のところ、三つめにおいては、自分自身と政府との区別がないのだ。「自分自身において燃える」とは、つまり、「ここ」で燃える、ということだったのである。「ここ」に、「自分」や「政府」という区別はない。ただ、「ここ」である。存在するのは「ここ」である。だから、厳密に言えば、彼らは「批判」をしているわけではない。ただ単に「燃えて」いるのだ(ただ単に「怒って」いるのだ、と書こうとしたが、「怒る」だとまだ感情を他者へ向けるニュアンスが残る気がしたのでやめた)。彼らは政府も自分自身も批判していない。単に燃えている。

  おそらく、「政府批判者」を批判する「政府批判批判者」は、一つめの「冷静な批判者」なら許容し、二つめの「激情的な批判者」は拒絶するのだと思う(と言うか、「政府批判批判者」のうちの一定数は「冷静な(政府)批判者」でもあるだろう)。だとしたら、全ての「政府批判者」が「冷静な批判者」になればいいのか。そうすれば、「政府批判批判者」が危惧するような危険なことも起きず、且つ、政府(国)も適切に動くのか。
  そうではないと思う。なぜなら、人間は「感情(激情)」を伴ってでなければ大きくは動かないからだ。人間は感情(激情)にこそ感化され動き始めるからだ。おそらく、「冷静な批判者」しかいなければ、政府が補償について検討する時の真剣さは現状ほど高くなかったのではないだろうか。政府の真剣さを引き出すためには、つまり、国民としての政府に対する【機能】を適切に作用させるためには、「激情的な批判者」が一定数存在しなければならないのだ(その「一定数」とはどの程度なのかを知る能力は僕にはないが)。「激情的な批判者」は「必要」なのだ。

  しかし、「激情的は批判者」は「不幸」である。政府(国)が自分たちの幸せな生活を奪っているという気持ち、政府(国)がちゃんとすれば自分たちは幸せな生活を持てるのにという気持ち、そういう気持ちを持ちながら生きるのは不幸である。そのように全てを「他者」のせいにする人(もちろん主観的にはそうではない場合もあるだろうし、「全て」というのは言い過ぎな場合もあるだろうけど)は、もしその「他者」が自分の望んだとおりに変わったところで幸せにはなれない。なぜなら、幸せは「他者」ような「外的」なものによって作られるわけではないからだ。
  ここで、「幸せは自分自身で作るものだ」と主張するのは容易い。注意が必要なのは、「自分」も「他者」も、ある側面から見れば、同じように「外的」なものであるということだ。「自分」も「他者」も、概念である。この世の中で一般的に通用するようになった概念である。私たちは通常、それに従って生きている。それらの概念が通用するようになったことは、ある側面から言えば「私たち自身が自分で」選んだことであるとも言えるし、別の側面から言えば「たまたま」私たちがそれを選ぶようになっているとも言える。それらは同じことだ。それらは観点が異なるだけで実際のところ同じことなのだが、「幸せは自分自身で作るものだ」と主張する人のうちの一定数は、前者(「自分で」選んだ)の方に重きを置いているだろう(その方向に引っぱられるのは、その主張の外観上、仕方のないことだが)。それは、「自分」という概念に従っていることが「たまたま」であるという側面、つまり、「自分」が「外的」なものであるという側面を見逃すということである。「自分」も「他者」と同じように「外的」なものだという側面から見れば、「幸せは自分で作る」も、「幸せは他者によって作られる」も、どちらの主張も、幸せを「外的」なものに委ねていることにかわりはない。
  「自分で」選んだという側面と、「たまたま」そうなったという側面とが、同じことの別側面として同時に成立しているのが、人間の生である。では、そのような存在としてその生を生きるとはどのようなことなのか。

  「幸せ」とは何か。
  こんな大きすぎることを僕がひと言で述べようとするのは、全くもって自分の身をわきまえていない振る舞いではあるが、恥を承知で言ってしまおう(これで誰が不幸になるということもあるまい)。
  「幸せ」とは、「ここ」を全存在をかけて「味わう」ことである。どんな状況にあろうと、お金があろうとなかろうと、友達がいようといなかろうと、恋人がいようといなかろうと、家族がいようといなかろうと、職があろうとなかろうと、食べ物があろうとなかろうと、家があろうとなかろうと、能力があろうとなかろうと、何かを、持っていても、持っていなくても、その状況を全存在をかけて「味わう」ことである。自分の置かれている「ここ」を、全存在をかけて「味わう」ことである。それは、現状が辛くても耐える、というようなことではない。味わい方は無限であると思う。味わい方が、「政府批判」になることもある。「政府批判批判」になることもある。じっと動かずにいることにもなるし、積極的に現状を変えようとすることにもなるだろう。現状の苛烈な「否定」にさえなるだろう。しかし、そこで、「ここ」を「味わう」ということが生きているならば、それは幸せである。「たまたま」の現状を味わうことが生きているなら、幸せである。「たまたま」の現状を全存在で悦びながら、それと同じこととして「自分で」自分の人生を作っていくこと、人間にはそれができる。「自分で」作ったその人生はまたやはり「たまたま」の産物であり、「たまたま」の現状を全存在で悦ぶことが「自分で」選んだ結果でもある。そのような永遠の二重構造において、人間は生きることができる。
  このような生き方を体現する具体例として、「政府批判者」の三つめ、「冷静かつ激情的な批判者」を挙げたのだった。この批判者になら、感情(激情)によって政府(国)を動かすという国民の【機能】を果たしながらも、政府の「せい」にするというような愚(とそれによって生じる個人の不幸や社会全体の不幸)を避ける、という可能性を見ることができるのではないだろうか。
  もちろん、ここまで書いてきたことは「政府批判」の文脈に留まるものではなく、人間の生全体に及ぶものである。
 僕は、幸せであることを願っているのだと思う。「誰が」幸せであることというのでもなく、「全ての人が」幸せであるというのとも違って、ただ、幸せ「である」ことを。