哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「終わらせる」ということ

 スタッフとして働けないかと思い、あるNPO法人を訪問しました、昨日。

 

 そこで感じたのは、「ああ、僕は哲学をするしかないのかなぁ」ということでした。

 だって、担当の人と、その法人の仕事内容などについて話していても、僕の頭は、「どうやったら哲学(書を読むこと)を仕事の中に入れ込めるか」ということばかり考えてしまっているんだもん。

 

 僕は大学時代に哲学を専攻しました。そのまま哲学専攻で大学院にも入りましたが、いろいろあってすぐに退学しました。

 

 

 哲学を仕事にするには、と考えてしまう。

 でも、そんなに真剣に身を入れて哲学をしたいわけでもないんだよな。

 と言うか、哲学するのなんか「マジでイヤ」だとも思う。

 だって疲れるし、苦しいし、、、、

 でもやってしまう! 気づくとやってしまっている……。

 

 でもやっぱり、仕事にするほどはできない……と思ってしまう。

 

 

 昔読んだ、「新世紀エヴァンゲリオン」の新劇場版のパンフレットに、庵野秀明のこんな言葉が書いてあった(正確な言い回しは忘れました)。

 庵野曰く、(アニメ版18話くらいで?)綾波やアスカが使徒にやられているとき、シンジは「もう僕は戦いたくない」と言いながらも徐々にネルフの方に体が動いていっており、最終的には戦うことになるという場面があるが、そこでシンジは「戦う気は本当に全くない」、とのこと。

 つまり、戦わないと口では言っているけれど、「本当は」戦う気があるのだ、という解釈で作ったわけではないということだ。

 

 これ、最初に読んだ時はあまり意味が分からなかったけど、今なら少し分かるのかもしれない。少し。

 

 僕は哲学をしたいのか? したくないのか?

 「本当は」どっちなのか。

 

 「本当は」というのはないんだろうな……。

 「哲学をしたい」と「哲学をしたくない」、どちらもが独立して存在しているのだろう……。

 

 

 まあ、その話は今はどうでもいいんだけど。

 

 

 なんか、「終わらせたい」という気持ちがあるんだよな。

 とりあえず就職しちゃって、生活の保証を得て、安心して、、、そうすることで、「終わらせたい」。

 何をか。たぶん、「迷い」とか「不安」とか「不安定な状態」とか、そういうものを終わらせたい。今の、無職で、いつまでちゃんと食べていられるのかもよく分からない、曖昧な状態を終わらせたい。安定したい。そして楽になりたい。だから、今までみたいにアルバイトというかたちではなく、腰を据えて働けるような働き方をしたい、のだ(こういう思考はおそらく「死んでしまいたい」という思考にもつながっているのだろう。まさに、究極の「終わらせたい」としての「死にたい」)。

 

 哲学をする、というのは、不安定な状態でずーっといるってことなんだよね、僕の中では。だからイヤだ。僕は安定したいのに、哲学を選ぶということは不安定でいるということ……。そして、僕の身体は哲学を求めている……。

 どうすればいいんでしょう。

 という感じですね。

 

 

 哲学(書を読むこと)を選ぶとはどういうことかというと、

一つは「大学(院)などの研究機関に属して研究する」こと、

一つは「大学(院)などの研究機関に属さずに個人的に研究する」こと、

他に何かあるかな?

 

 まあとりあえずこの二つとして。

 前者の場合、学費・生活費がかかるし、その費用を稼ぐ術がないので奨学金を借りることになる(バイトじゃもちろん足りない、というかバイトする時間があるなら哲学したい)。一応、学生を終えたあとに大学の先生や高校の先生などになれば、借りた奨学金はチャラになるんだけど……でも先生になる気は今は全然ない。将来どうなるのかも分からないまま、借金をどんどんしていって研究を続ける。うーむ。

 後者の場合もやはり生活費はかかる。それを稼ぐためにはやはり借金をするかバイトをしなければならない。でもバイトをする時間があるなら哲学をしたい……。

 

 

 まあ、べつにこんなことはいいんですよね。だって哲学するのって、こういうことだもんね。全然先が見えなくても、やるのが哲学なんだもん。先が「見えなくても」、って言うか、先を「見ない」んだよな。いや、もう単純に、「見ない」。先を、とか、何をとか、もう関係なく、見ない。と言うか、「見る」とか「見ない」とかじゃない。

 哲学するって、「いる」ってことなんだよな。あるいは、「ある」。たぶん。それが全てなんだよな。

 

 

 1年半くらい前にハイデガーを読んでいて思ったのは、ハイデガーの言う「不安」って、「不安な気持ち」ではないんだ、ということ。だって、「不安な気持ち」って、「先を見ようとする」から起こるんだもん。「先を見ようとするけど見えない」から「不安な気持ち」が起こる。それに対し、哲学するということが「見る」でも「見ない」でもなく、ただ「いる(ある)」ことだとしたら、哲学する主体が本質的に必然的に「不安な気持ち」になるわけがない。

 ハイデガーが言うように「不安」が「根本的情態性」だとしたら、「不安」とは、「不安定な状態」のことなんじゃないか。それは「状態」であって、「気持ち」ではない。綱渡りをすることは不安定な「状態」であることだけど、だからと言って必然的に不安な「気持ち」になるわけではない。「落ちるんじゃないか」と思う(「先を見ようとする」)から不安な「気持ち」が生じるのであって、ただ単にその綱渡りという行動に集中しているだけなのならば、おそらく不安な「気持ち」は生じない。それはただ単に不安定な「状態」であるだけである。

 

 

 

 先を見ようとするから不安な気持ちになっちゃうんだよな。先はどうなるのかは全く分からないんだから、見ようとしても仕方ないのにさ。

 

 うーむ、でも、見ちゃうなあ。

 くー。

 

 と言うか、もう、そこまでして生きていてどうなるんだよ、という方向に頭がいっちゃう!!

 

 

 

 まあ、とりあえず生きていよう。こんな、ぐるぐるしながら。それもいいでしょう。

 安定し安心するために「終わらせる」ということがあらゆることの中で最も避けるべきことだ、と僕は思います。