昨日、講談社現代新書で出ている笠原嘉の『軽症うつ病』という本をパラパラと読んでいたのだけど、そうしたら、「わしって、あんまり楽になりたくないのかもなー」と思った。
今は結構わしは精神的に苦しいんだけど、この苦しみがなくなっちゃったら、自分が自分でなくなるような気がする。あるいは、この苦しみと付き合っていかない人生に何の意味があるんだろう? などと思う。
いや、まあ、何年、何十年かの時間をかけて、じっくりと楽になっていくのならいいかもしれない。体感的に「楽になって当然だ」という感覚を伴いながら着実に、ならいいかもしれない。苦しみの感覚を噛み締めながら段々とそれが解体されて楽になっていくなら、いいかもしれない。
薬を飲んだら、はい、楽になりました、というのがイヤだな。なんか、そんな簡単に治っちゃったら「もったいない」という感じもする。苦しみがあるなら、それを全面的に自分の生にいかしたい、という感じ。
僕は、ここ3、4年のあいだ、ある一人の人物のことが気になって気になって、苦しい。仮りにその人をUさんと呼ぼう。Uさんは僕にとっての、生きる上での師のような人だ。Uさんと出会ったのは7年くらい前で、出会ったその日からピンときて、そこから数年、Uさんのもとに通って過ごし、多大な影響を受けた。しかし、ある時から、Uさんと一緒いるのがつらくなってきた。Uさんと一緒にいたいという気持ちと、一緒にいるとつらいという気持ちが闘い始めた。そしてある日、つらいという気持ちが勝って、僕はUさんから離れた。
それから3年以上たって、僕の中にあるのは、Uさんのもとに戻らなければならないのではないかという気持ちと、でも戻るのはつらいという気持ち、この2つだ。この2つのあいだで、常に引き裂かれそうになっている。まだ、つらいという気持ちが勝っているから、Uさんのもとには戻っていない。
忘れたら楽だな、とは思う。
でも、不思議と、「忘れたい」とは思わないのだ。
Uさんを忘れたら、僕が僕でなくなってしまう、僕の人生が空っぽになってしまう、そんな感じがする。Uさんによって苦しんでいるということが、今の僕が僕としてかろうじて生きていることの表れなのだ。だから、今のところは、苦しくても、僕はUさんをいつも頭の片隅に置いている。
いつか、Uさんのことを忘れるときが来るのだろうか?
それとも、僕はUさんのもとに戻ってまた一緒に日々を生きていくのだろうか?
あるいは、このまま死ぬまでUさんのことで苦しみ続けるのだろうか?
あるいは、忘れるのでもなく、苦しみ続けるのでもなく、Uさんとちょうどいい距離感になることがあるのだろうか?(それはなさそう……と思っちゃう、と言うか、「ちょうどいい距離感」になったらダメだ、と思ってしまう。Uさんと「ちょうどいい距離感」になって僕が僕として生きるところが想像できない。)
またあるいは、これらとは全く別の道があるのだろうか?
それは、今の僕には分からない。
どれであってもいいと思う(4つ目は微妙だけど)。