哲学を専攻していた、と言うと、「何か役に立った?」と訊かれることがある。
僕はたいてい「役に立つ……うーん、まあ、役に立ってますね」などと言う。そこで「何の?」とか「何が」などと訊かれると、「哲学の全部が役に立ってます」と言う。
どういうことか。
食べることに似ていると僕は思う。
僕が読んだ哲学の本の全てが、僕を形作っている、と僕は感じている。僕を形作ることに全く寄与しなかった本は存在しない、と僕は感じている。僕が行うこと、僕が言うこと、その全てに、僕が読んだ本の全てがはたらいている。
食べること。何を食べても、何かを食べれば、食べたものは必ず食べた人に作用する。体を作ったり、エネルギーになったり、あるいは、健康にするにせよ不健康にするにせよ、何らかの形でその人に作用する。何を食べても、そうだ。食べたものの全てが体に作用する。
哲学の本は、僕にとって、それと同じだ。何を読んでもその全てが僕に作用する。僕の中ではたらく。僕を形作る。
それらは僕の中で生きている。
いや、そうではない。
僕の中でそれらが生きるということは、すなわち僕が生きるということなのだ。僕が読んだ本は僕の一部になる。つまり「僕に」なる。僕が読んだ本は、僕になるのだ。
だから、僕が読んだ本が生きるということは、僕が生きるということである。
「哲学の全部が役に立ってます」とはそういう意味である。
だから、やはり、「役に立つ」という言い方はあまり合っていないと思う。「役に立つ」とは、「何かの」役に立つということである。哲学が僕の中で生きている、ということなら、哲学は「僕の」役に立っている、と言えるだろう。しかし、実際は、先に書いたとおり、哲学が生きるということがすなわち僕が生きるということなのである。哲学は僕であり、僕は哲学なのである。役に立つ時、つまり、何かが何かの役に立つ時、そこには「何か」が2つある。2つ以上のものがなければ、「役に立つ」という言葉は使えないのである。哲学が僕であり、僕が哲学である時、そこには1つのものしかない。つまり、哲学=僕、である。だから「役に立つ」という言葉は使えない。
役になんて立たなくていいと思う。
ただ生きてさえいればいい。
生きることにだけ集中していればいい。
一所懸命に生きればそれでいい。