哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

布マスク

布マスクが2枚届いた。

個人的には、マスクを買うお金が浮いてラッキー、くらいの気持ちでいたいのだが、

街ではこのタイプの布マスクをしている人をほとんど見ないし、
また、このマスクはSNSなどでさんざん揶揄されたマスクである。

これを着けて街に出ることは、
単に感染症拡大防止のためにマスクを着ける以上の意味を持ってしまいそうで、
つまり、周りから変な目で見られんじゃないかと不安で、
だから、なかなか着けられない。

……
……

僕は今、共産党の新聞を配送する仕事をしており、共産党の人たちと関わりがある。この前、共産党の党員になって野田市の議員に立候補しないか、という話をされた。

僕がそのとき思ったのは、議員に立候補することよりも、共産党員になることの方が僕の中で抵抗があるようだ、ということだ。

と言っても、共産党の考え方に僕が特に反発を覚えているというわけではなくて、
僕が不安なのは、「この人は共産党員だ、と周りに知られたら変な目で見られんじゃないか」ということである。

……

昔、北海道に住んでいた頃、家の近所に知的障害を持つ人がいた。

同級生たちの中には、その人に会うと、その人を馬鹿にする意味の言葉を投げかける人もいたと思う。
僕の記憶上では、僕はそうしなかったし、そうしたくもなかったし、そうするべきではないと思っていた。
でも、僕が友人たちと一緒にいる時に、その知的障害を持つ人に偶然会って、その人が話しかけてきた時には、僕はその人と普通に話そうとはしなかったと思う。少し避けるような行動をとったと思う。それはおそらく、「知的障害のこの人と仲良くしている人、と思われたら友人たちから変な目で見られんじゃないか」という不安のためだ。

……
……

これらのことを、
「個人的には差別していないけど、周りの目は気になる」
などというふうに表現してもいいのだろうか。

……

むしろ、差別とは「まさにそれのこと」なのではないだろうか。

それは例えば、
「やってることは差別している人と同じなのだから結局差別だ」
ということともたぶん違っていて、


差別とはまさに、
「個人的には差別していないけど、周りの目は気になる」
ということ、なのではないだろうか。
それがまさに差別そのものなのではないだろうか。