哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

『家なき子』と『小公女』の感想。

マロの『家なき子』とバーネットの『小公女』を読んだ。
友人と、この二冊の読書会をしようと計画していたけれど、無しになった。
軽く感想だけでも書いて友人に送ろうと思って書いてみた。


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家なき子

わしは、「場所の移動」みたいな話が結構好きなんじゃないかと思った。この本の主人公もずーっと移動してる。旅をしてる。

わしは趣味でときどき物語を書く。大学時代は文芸部だった。
わしが去年書いた「流れだす」という物語も、かなり移動する話だ。
あと、大学2年の時に書いた「たまねぎのうた」(わしが書いた物語の中で最も他人受けがよかった)の主人公であるたまねぎも、旅のようなものをしている。
(旅行ではなく、旅である。)

わし自身はどうかと言うと、北海道からつくばに来て、そして野田に来た。特に珍しくもない移動だ。これだけでは何とも言えない。

「出ていきたい」という気持ちが、あると思う。
北海道から、そしてつくばから。いつか野田からも出て行きたくなるのだろうか。
何か「このままここにいるのは窮屈だ」という感覚が徐々に生まれてきて、その結果、そのマチを出ていくということになっている気がする。
なぜ「窮屈」になっていくのかと考えると、まあ、自分で自分を窮屈にしているのだろうなと思う。ざっくり言えば、他人に見せている自分の「キャラ」に囚われてしまう、といったことだろうか。
初対面の人との関わりは楽だ。過去がないため、「こういう自分を期待されているだろう」という強迫観念がないからだ。関わりが続いていくと、徐々に窮屈になっていく。「過去の自分から続く一貫性」で自分を縛ってしまう。
(そこを超えると楽になるのだけどね。)
そういう窮屈さに我慢できなくなって、わしは移動するのだと思う。

家なき子』における移動はわしのような移動ではない。『家なき子』の移動は、もっと外在的な理由によるものだ。だから、上に書いたわしの移動の理由を、そのまま、この本の中の移動をわしが面白いと思った理由にも適用できるのかは分からない。けれど。


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『小公女』


秘密の花園』を読んだ時にも思ったけど、バーネットの書く物語の主人公って、わしが強く影響を受けたある哲学者に似てるなぁと思う。
お嬢様、
高貴、
大胆、
媚びない、
泣かない(卑しい人の前では)、
本の虫、
人を、静かに、まっすぐ、心を射抜くかのように、見る、
みんなに囲まれてワイワイ楽しむのも似合う、
ひとりの寂しい夜も似合う、

、、、みたいな。


この本の主人公は、いつも物語を空想していて、それを話して聞かせてくれる。
あるいは、何かの「つもり」になっていつも過ごしている。例えば、どんなに寒くてお腹が空いていても、「わたしは公女様だ」という「つもり」で生きていて、それにふさわしい言動をする、といったような。
これは、単なる空想なのか。
いや、これは、「現実」の「創造」ではないだろうか……
現実には、彼女はこき使われていて、ご飯もろくに与えられていない、格好の汚い召使いである……?
でも、彼女は「公女様のつもり」なのだ。そしてそれにふさわしい振る舞いをする。自分もとてもお腹が空いているのに、自分よりももっとお腹を減らしている子に、パンをあげる。自分をこき使っている人に懐柔しようと媚びたりせず、ただ淡々と仕事をこなし、理不尽な要求をする人にはあの静かな視線を投げかける。
彼女は、「現実」に、公女様なのではないか?
それ「が」現実なのではないか?

ただの空想に過ぎないとか、自己慰みだとか、負け惜しみだとか、そういうものではない。
彼女は、物語を考えることで、現実を創っている。
「現実とは物語である」などということがよく言われる。現実とは「所詮」物語なのだ、と言っている感じがしてこういう言説をわしはあまり好きではないのだけれど、でも、バーネットの描く物語には、この言説はよく当てはまるような気がする。「所詮」なんていうつまんない、中途半端な現実の捉え方ではなく、ラディカルな意味でのそれ。「マジで」現実とは物語なのだ。
(時には、お腹が空きすぎてプツンと切れちゃうこともあって、それはそれで大事な場面なのだけど。)