哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

議論―対話、感情、「病気」。

 1週間ほど、演劇関連で知り合ったTさんとツイッター上でリプライの応酬をしていた。
 「会話」とか「対話」とか「議論」とかとは書かずに、「リプライの応酬」と書いたのは、途中から僕が、Tさんとの双方向的なやり取りをやめて、ただ僕の言いたいをことを言っていただけだからだ。途中までは議論の体をかろうじて保っていたが、途中で僕がその議論の流れに疲れて(あるいは飽きて)しまい、ただ僕の言いたいことを言う、というやり方に変わった。Tさんの方は、それ以降も議論というかたちを保って話そうとしていたのではないかと思う。
 この応酬の始まりは、Tさんのあるツイートに対して僕がリプライを送ったところから始まる。Tさんのそのツイートに気になる部分があったため、リプライを送ったのだ。僕自身の感触としては、自分の送ったその最初のリプライにはすでに、「あなたが嫌いです」という、Tさんに対する否定的な気持ちが含まれていたと思う。そして、結局その気持ちをずっと持ちながらその後のリプライの応酬が続き、それが変わらないまま応酬は終わった。

 そもそも、Tさんとのこのようなやり取りに至るまでには僕自身の中で一つの流れがあったと僕は思っている。

 最初、Tさんのツイートに対して「この人、嫌いだ」と感じたのは今年の9月頃だと思う。
 Tさんを嫌いだと感じるような仕方で人を嫌いだと感じることは、これまでに何度か経験している。僕は、Tさんのツイートに対する自分の感情を見て、「ああ、いつものこのパターンか……」と思った。面倒くさいことになりそう(自分が)だな、と思った。たいてい、ある人に対してこのような感情を持ってしまうと、僕はその人に一言(二言三言……百言)言わずにはおれなくなる。なぜか攻撃的になってしまう。そしていつも険悪な雰囲気になる。
 「いつものパターン」とは言っても、僕はこの現象を十分に分析できておらず、対処法を確立していない(だからいつも険悪になるのだ)。そこで僕は、Tさんのツイートに嫌悪感を持った時、「とりあえずミュート」をした。目に触れないようにしたのである。そうすれば、Tさんを攻撃しようと思うこともなく、自分の心の平安も保たれるだろうと考えた。

 それが崩れたのが、Oさんの演劇系ワークショップの時である。僕も参加したそのWSに、Tさんも参加していたのだ。僕はその会場でTさんを見た時、まず始めに「あ、ミュートした人だ」と思った。そして、何か「後ろめたい」ような気持ちになった。「ミュート」したことに後ろめたくなったのだ。そして、Tさんのツイートを見た時に生じた嫌悪感の記憶も蘇ってきた。
 そのWSでは、二人組のペアになることが多く、Tさんとも何度かペアになったが、そのたびに僕は、後ろめたさと嫌悪感の記憶に囚われてしまい、終始ぎこちない感じになっていたように思う。そして、最後のワークで僕が選んだ、Tさんへの「ある一言」には、相当、この僕の感情が反映されていたように思う。
 僕は、その日、帰宅してからTさんのミュートを解除した。これからもこの地域で演劇に携わっていくとしたら、Tさんとはこれからも関わっていかざるをえないだろう、だとしたら今日生じたような感情を分析・消化せずにいれば色々と不都合が生じるだろう、しかしTさんをミュートしたままだと分析・消化はできないだろう、と僕は考えたのだ。そこから、Tさんのツイートをほぼ毎日目にすることになる。

 しかし、Tさんのツイートを見ても、「嫌いだ」と思うだけで、とくに分析や消化は進まなかった。そうする気が起きなかった。ただただ、ツイートを見て、「嫌いだ」と思い続けた。そして、「何か文句を言いたい」という気持ちがふつふつと湧いてきた。さきほど「いつものパターン」と書いた、ある人たちに「嫌悪感を持つ」とともに「一言言いたくなる」という傾向は、ある種の「病気」であると言えると思うが、今回も僕はその「病気」に対処できぬままだった。

 そして、僕はTさんにリプライを送り、長い応酬が始まった。
 毎日Tさんのツイートを見る中で、嫌悪感がある限界にまで達した結果がそれだったのだと思う。だから、僕は最初から「ただ言いたいだけ」だったと思う。嫌悪感が限界を超えてしまって、我慢ができなくなって、「今の感情をただ発したい」という状態だったのだと思う。だから、Tさん「と」の議論を僕は放棄した(とは言え、Tさんからのリプライはかなりよく読んだし、こちらからのリプライの内容もよく考えたものではあるのだが)。「ただ言いたい」「ただ感情を発したい」という気持ちに沿って僕はTさんへリプライを送り続けた。

 そして、このことは一応、僕があのリプライの応酬の中で主張している内容に適ってもいる。あのリプライの中での僕の主張を端的に言えば、「相手に(そして自分にも)配慮することなしに思ったことを思ったまま言うということが、議論の最も良いやり方だ」ということだ。そこには、感情のままにものを言うということも含まれる。嫌悪感のままにものを言うことも含まれる(この主張の説得的な説明を試みるのはこの文章の趣旨に沿わないので割愛する)。

 Tさんの主張は、僕の主張とは対立するものだった。僕はそれに対して、ただ「それは違う。これが正しい」と言い続けた。それは、「ただ言いたい」だけだったからだ。Tさんを説得したいなどと思っていればもっと違う言い方をしただろう。Tさんの意見と自分の意見を闘わせつつ発展的な考えを創出していきたいと思っていればやはり違う言い方をしただろう。しかし僕にはその気はなかった。というか、そういう気を持つ余裕がなかった。嫌悪感に満たされてしまっていたからだ。あの応酬よりももっと建設的なやり方はもちろん存在するのだが、少なくとも僕にはそういうやり方を取る余裕がなかった。そういう状態では、やはりあのリプライの応酬以外のやり方はありえなかったのだろうと思わざるをえない。
 そういうやり方の結果、残念ながら僕とTさんの話が噛み合うことは途中のある段階からはほぼなかった、と言っていいだろう。


………

 正直、リプライは早くやめたかった。Tさんから返信が来るたびに、「もう返信したくない」と思った。なぜなら、自分がだだ「言いたいだけ」なのは薄っすらと分かっていたし、その状態で話したところで話の内容が双方の間で発展するとは思えなかったし、このリプライの応酬を読む人(なんて存在するのか分からないが)から僕が嫌われることはあっても好かれることはない(言うまでもなくTさんにも!)だろうと思ったし……とにかく、何か「自分」にとってのメリットがあるとはあの応酬の最中には思えなかったからだ。しかし、Tさんからリプライが来ると、湧いてくる「言いたい」という気持ちに圧されて、リプライを返してしまった。

………

 嫌悪感に導かれた僕の発言によってTさんは不快になったかもしれない。それは単純に悲しいことだなと思う。嫌悪する相手に対してとにかくその思いをぶつけようとすること、そういう目的に導かれて人と接してしまうこと、そしてそれによって人が不快になること、こういうことが起こるのは、悲しいことである。

 TさんはだだTさんでいただけなのに、と今、思う。