僕は、時々、他人を苛烈に否定する。
他人に対して、直接、その他人を苛烈に否定する内容の発言を浴びせる。
僕の心配事①
僕のその行動の根底にある動機が「悪い」ものなのではないか?
ここでの「悪い」動機というのは、
・相手を傷つけて楽しみたい
・僕の中にある「恨み」を晴らしたい
・
・
うーん、
まとめるなら、、、
その動機が「悪い」動機である条件は、
「相手を、僕が否定するための単なる道具にすぎないものとして見ている」
かなぁ。
……
僕が否定する人には共通点があると思う。
僕が否定するのは、
「自分の気持ちに蓋をして、見ないようにしている人」
だと思う。
もう少し言うなら、
見ないように「努力」している人
かな。
自分の気持ちを全て知っている人はいないし、
知りたくない自分の気持ちというのは誰もが持っている。
それを、受け入れる時が来たら受け入れるだろう、という構えで生きているか、
絶対に受け入れたくない、受け入れないように頑張る、という構えで生きているか、
、、、
後者の人を僕は苛烈に否定する傾向がある。
……と、思う。
専門家に分析してもらったとかではなく、何人かの友人たちと話し合いながら自分なりに出した(暫定的)結論に過ぎないが。
心配事②
僕の「この人は自分の気持ちに蓋をして、見ないように努力している人だ」という判断は、当たっているのだろうか?
(ちなみに、「判断」と言っても、今ここで言語化しているほど意識的ではない。苛烈な否定を始めるまさにその時の判断は、ほとんど感覚的・無意識的なものである)
当然だが、この判断はいつでも、
この人は自分の気持ちに蓋をして見ないように努力している人だ、
「と僕が思っている」
ということに過ぎない。
これは現実に即しているのだろうか?
本当に、目の前のこの人は、自分の気持ちに蓋をして、見ないように努力している、のだろうか?
残念ながら、それを検証するモチベーション、検証するために何かしらの手段を講じるモチベーションは、今の僕にはない。
……
しかし、
「僕の動機は「悪い」動機か?」
ということを検証するモチベーションはある。
そして、僕の中では、
「僕の動機は「悪い」動機か?」
という問いと、
「僕の判断は当たっているか?」
という問いは、
同じ問いを別の側面から見たものである。
心配事①と心配事②は同じものなのである。
……
この世の全ては、繋がっている。
でも、ものとものの間に遮断のための壁を差し込むことはできる。
(まあ、遮断をしても結局は繋がっているのだけど)
①の心配事=問い
「悪い」動機ではないか?
言い換えれば、
「その人を単なる道具にしているのではないか?」
という問い。
これは、
「その人との繋がりを遮断しているのではないか?」
という問いである。繋がりを遮断しなければ、他人を、自分とは関係のない単なる他人とは思えなくなるからだ。もっと言えば、自分はその他人であり、その他人は自分である、と感じるからだ。そう感じてしまったら、他人を単なる道具にすることはできなくなるだろう。
……
遮断さえしなければ、僕とその人は直接繋がっている。
だから、遮断さえしなければ、僕はその人のことが、「直接」、分かる。
その人が、喜んでいる、悲しんでいる、ちょっと疲れている、なんとなく前向きになっている、自分の気持ちに蓋をして苦しんでいる、、、、
そういうことが、「直接」、分かる。
遮断さえしなければ。
だから、①と②は同じなのだ。
①僕は遮断していないか?
②僕の判断は当たっているか?
遮断をしなければ、「必ず」、当たるのだ。
なぜなら、全ては繋がっているからである。
全ては、「ひとつ」だからである。
……
しかし、「全く」遮断をしないというのは、人間にはありえないことだろう。
人間はそういう存在である。
必ず、人間は、「分ける」だろう。
僕は、遮断をするだろう。
……
でも、根底にあるのは、「ひとつ」、ということなのだ。
……
否定の話がどっかいっちゃったー。