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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

守ること

 僕は、隠し事をするのが苦手だ。何でもかんでも話してしまう。秘密を持っていたくない。

 隠し事をするということは、自分でそれを背負う、ということを含んでいる。

 隠さずに全てを話すことは、楽だ。自分一人で何も背負わなくていい。全てを共有し、共同した力でそれを背負う。

 恋人がいるのに恋人ではない人とキスをしてしまった、とする。僕なら誰かに話したくなる。恋人本人にさえも、話したくなる。恋人本人には話せなくても、口の堅いと思われる友人には、おそらく話してしまう。話さないと辛いからだ。話さないと重いからだ。重みに耐えられない。楽になりたい。

 隠し事をする人というのがいる。そういう人は、ある意味、強いと思う。強いことが良いことなのかはさしあたり不問にするとして、とにかく、強いと思う。

 スイートリトルライズ、という江國香織原作の映画を観ていたら、「人は守りたいものに嘘をつくの」というセリフが出てきた。

「人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに。」

 守りたいものに嘘をつく。
 守りたいから嘘をつく。
 守らなくてもいいと思うものには嘘をつかない。本当のことを言う。

 守りたいから、強くあろうとする。
 嘘をつくのには強さがいる。
 隠すのには強さがいる。

 僕も、強くあることができた方がいいのだろうか、と思った。僕も嘘をつけるようになった方がいいのだろうか。

……

 守る、と言っていた。その映画では。

 守ること……

 ある人に訊かれたことがある。
 「守りたい?」、と。
 ある子供について話していた時だ。その子供のことを守りたいか、と。

 僕は、「守りたいとは思わない」と答えた。
 そして、「でも、大事にしたいとは思う」と続けた。

 「守る」と「大事にする」の違い。
 僕のその時のイメージを言語化してみる。
 「守る」は、その子供に危険が及ばないように「常に」そばにいる、というイメージ。どんな時でも常にすぐそばにいる。
 「大事にする」は、子供が困って助けを求めた時にはいつでも手助けする、というイメージ。すぐそばにはいないけど、わりと近くにはいて、求められればいつでも助ける。

 「守る」のでは過保護すぎる、と思ったのだ。だから、「大事にする」と僕は言った。

 その時はそこまでは説明しなかったので、「守りたい?」と僕に訊いたその人は、僕の答えをいま僕が書いたように理解してはいないだろう。
 また、その人が、「守る」という言葉をどんな意味で使っていたのかは分からない。

……

 スイートリトルライズにおける「守る」という言葉は、もちろん、僕がいま説明した意味とは違う意味で使われていた。

 でもやはり、僕には、「守る」という言葉に対する少なからぬ拒否感がある。

 でも……

 でも、一つも隠し事を持てない、というのは、どうなんだろう……とも思う。

 隠し事の放棄。
 「守る」ことの放棄。
 強さの放棄。
 あるいは、個人主義

 ここでの「守る」とは、「他人を」守ることだ。だから、その放棄はある意味で「他人の放棄」であり、それゆえある意味で個人主義と言える。あるいは自分主義。

 だから、隠し事をすること、嘘をつくこと、それは、他人と自分とを繋げる、ということなのだ。

……

 いまは、僕には、「暴力」に思えてしまう。「守る」ということが。
 「守る」ことは「暴力」だから「よくない」、と思ってしまう。
 「守る」のはやり過ぎだ、過保護すぎだ、一人の人間に与えられるべき領域が不当に侵されてしまっている、と感じる。

 でも、「守りたい」と思う人の気持ちを分かりたい、とも思う。だって、少なくとも、あの映画の中での中谷美紀は本気だった。

……

 もう少し時間をかけて考え続けることにする。