哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

分かってくれている人

「この人、僕のこと分かってくれてるな」
と思うことがある。

でも、「分かってくれてる」ってなんだろう、
って思う。人のことを「分かる」って。

一緒にいて、
遊んだり仕事をしたりして、
楽しいなぁ、
充実してるなぁ、
この人とはすごく噛み合うなぁ、
と思っていても、
「僕のことを分かってくれているか」と考えると、
そうでもないような気がする、ということはある。

それに対して、
考え方や生き方は違うし、
言ってることもあんまりよく分かんなかったり、
一緒にいて「楽しい」という感じでもなかったり、
という人なのに、その人が僕のことを、
「分かってくれている」感じがすることはある。

……

ちょっと前のことだけど、
ある映画を観て、僕は感動して、
ある仲のいい人に、「この映画観て!」と言った。

この人とは、定期的に電話をして、近況とか最近考えたことについて話すような仲で、今回も、その映画について話せればいいなと僕は思っていた。

数日後に電話したら、
その人は、その映画をおかしなやり方で観ていたことが分かった。
その人は、
最初の数分を観て、次に最後の数分を観て、また最初のシーンの続きに戻って数分観て、最後のシーンの一つ前のシーンを観て、というふうに、最初と最後から徐々に映画の中間点に向かって観ていくというやり方で観ていたのだ。

僕はそれを聞いて、キレちゃった。
僕のことを全然「感じてない!」と思ったからだ。
「感じてくれてない」ということが悲しかったからだ。
個人的に映画を楽しむのならどんなやり方で観たっていいけど、
僕が「観て!」と言ったんだから、それは、その映画をまずはストレートに味わってほしいということを含意している、ということは分かるはずじゃないか、と思った。
僕について、そういうことが「分かる」人だと、僕は思っていた。「実際は分かってなかったのか」と思って、悲しかった。

……

でも、今その人のことを考えてみると、やっぱり、その人が「僕のことを分かっていない」という感じはあまりしない。「分かってくれている」という感覚が僕にはある。

やっぱり、この人は、「分かってくれている」のだと思う。僕のことを「感じていない」というのは、たぶん、僕の勘違いだったのだろう、と思う。

●相手のことを「感じている」「分かっている」ということと、
○相手の望むことが分かる(あるいは、相手の望むことを分かろうとする)ということは、
別のことだ。
さらに、
○相手の望むことが分かったとして、では実際に相手の望むことをするのか?
ということもまた、別のことだ。

その人はただ、「その人の行動」をしたに過ぎないのだ。
その人は、僕のことをちゃんと感じていた。
ちゃんと感じて、その上で、あのおかしなやり方で映画を観たのだ。
それが、その人なのだ。
たぶん。

……

まあ、なんにしても、「分かってくれている」人がいるって、幸運なことだなぁと思った。
(何のまとめにもなってない)