哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

誤解されにいく

僕は、誤解されそうな文をわざと書くことがある。

例えば、

「相手の言動にムカついたら、「うるせえ、死ね」などと言って発散すればいい」

みたいなことを書いたことがある。

これは、うるせえ、死ね、と「相手に対して」言えばいい、というふうに読まれてもおかしくない。

でも、僕としては、そこまで意味を限定してはいない。「相手に対して」とは僕は書いていない。家に帰って一人になってから壁に向かって言ってもいいのだ。まあ、「相手に対して」言うことも排除してはいないのだが。

あとは、

「僕にお金ちょうだいと言われて嫌な気持ちになる人は僕の友達ではない」

みたいなことを書いたこともある。

これは、「僕にお金をくれない人はぼくの友達ではない」と読まれてもおかしくない。

でもやっぱり、僕はそういう意味では言っていない。「嫌な気持ちになる」ことと「お金をくれない」ことは同じではない。嫌な気持ちにならなくてもお金をくれないことはあるし、嫌な気持ちになってもお金をくれることはある。

……

ある程度の人からは誤解されるだろうな、と分かっていながら(実際に友人から、誤解された上で「あれってどうなの?」と訊かれたりしたことがある)、こういう書き方をしたくなる。

なぜそう書きたくなるのか、今のところ、よく分からない。

……

例えば、僕は、「無実の罪で逮捕されて取り調べを受けてみたい」という願望が薄っすらとある。「無実の罪で怪しまれたい」。

……

僕の文章を読む人に対して、「とにかく引っかかってほしい」「引っかかってくれさえすればいい」と思うことがある。意味は伝わらなくてもいい、「ん?」と思ってもらうだけでいい。

……