哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

弱さ

最近、自己肯定感が下がり気味なのだが、
自己肯定感の低い時にする主張は、
基本的にはあまり説得力がないような気がする。

自己肯定感が低い時は、
「誰かに肯定してほしい」という焦りとか、
「なんで肯定してくれないんだ」という怒りとかが、
主張の内容の他にくっついてしまって、
それを感じた相手は、
主張内容を受け取る前に、
その焦りとか怒りとかが心に引っかかってしまい、
その主張を受け入れることが難しくなる、
気がする。

という話は、まあ、どうでもいいんだけど、

焦りとか怒りとかも含めて、
全面的に肯定してもらえたと感じられると、
(必ずしも「主張内容を」肯定されなくても)
癒やされて、回復する。

意外と、
自分で自分を肯定して癒やされることもできるけれど、
やっぱり、
他人に肯定されることの有効性は高い気がする。

弱い自分を認めて、
他人に頼れると、
いいのだけど、

自己肯定感が低い時って、
他人に対して、
「頼ったら迷惑かなー」
と思ってしまってる時だったりして、
それで悪循環になって、
なかなか、
上手くいかなかったり。

人がパートナーを求める理由とか、
人が家族を大切にする理由とかって、
こういうところにもあるのかなあ、とか。
「この人になら頼っていい」
「家族になら弱みを見せていい」
と思えると、心が安定しそう。
「〜になら」っていうふうに「限定」すること。
(これはおそらく「契約」である)
「これがあるから大丈夫」っていう、
防波堤みたいな?

僕はこれまで、
いろんな友人たちから緩やかにちょっとずつ肯定されることで、
自己肯定感を保っていたけど、
それは不安定なやり方かもしれない。

でも、僕の思想的立場からすると、
この「不安定さ」こそ、
全面的な自己肯定に必要なもので、
つまり、極端に言えば、
「誰にでも」頼っていい、
「誰にでも」弱みを見せていい、
という心持ちでいること。
頼る対象を限定しないこと。

「この人になら」
「家族になら」
という形で頼る対象を限定すると、
安定はするかもしれないけど、
もしその対象を失うと、「一気に」安定は崩れる。

対象を限定しなければ、
頼れる度合いなどが不安定かもしれないけど、
「一気に」崩れるリスクは低くなる。

でも、「限定」の誘惑はあるなぁ、常に。

……

たぶん、僕が友人たちを信頼する限り
(友人たちが僕を信頼する限りではなく)、
頼る対象を限定しないやり方は有効な気がする。
今、僕の自己肯定感が低いのは、
僕が友人たちを信頼していないから、
な気がする。
「頼ったら迷惑かなー」
というのは、
友人たちを信頼していないことの表れ、
な気がする。

しかし、本当に迷惑な場合ってないか?
(と考えてしまうこと自体が、自己肯定感の低さに由来するんだろうけど。)