最近、自己肯定感が下がり気味なのだが、
自己肯定感の低い時にする主張は、
基本的にはあまり説得力がないような気がする。
自己肯定感が低い時は、
「誰かに肯定してほしい」という焦りとか、
「なんで肯定してくれないんだ」という怒りとかが、
主張の内容の他にくっついてしまって、
それを感じた相手は、
主張内容を受け取る前に、
その焦りとか怒りとかが心に引っかかってしまい、
その主張を受け入れることが難しくなる、
気がする。
という話は、まあ、どうでもいいんだけど、
焦りとか怒りとかも含めて、
全面的に肯定してもらえたと感じられると、
(必ずしも「主張内容を」肯定されなくても)
癒やされて、回復する。
意外と、
自分で自分を肯定して癒やされることもできるけれど、
やっぱり、
他人に肯定されることの有効性は高い気がする。
弱い自分を認めて、
他人に頼れると、
いいのだけど、
自己肯定感が低い時って、
他人に対して、
「頼ったら迷惑かなー」
と思ってしまってる時だったりして、
それで悪循環になって、
なかなか、
上手くいかなかったり。
人がパートナーを求める理由とか、
人が家族を大切にする理由とかって、
こういうところにもあるのかなあ、とか。
「この人になら頼っていい」
「家族になら弱みを見せていい」
と思えると、心が安定しそう。
「〜になら」っていうふうに「限定」すること。
(これはおそらく「契約」である)
「これがあるから大丈夫」っていう、
防波堤みたいな?
僕はこれまで、
いろんな友人たちから緩やかにちょっとずつ肯定されることで、
自己肯定感を保っていたけど、
それは不安定なやり方かもしれない。
でも、僕の思想的立場からすると、
この「不安定さ」こそ、
全面的な自己肯定に必要なもので、
つまり、極端に言えば、
「誰にでも」頼っていい、
「誰にでも」弱みを見せていい、
という心持ちでいること。
頼る対象を限定しないこと。
「この人になら」
「家族になら」
という形で頼る対象を限定すると、
安定はするかもしれないけど、
もしその対象を失うと、「一気に」安定は崩れる。
対象を限定しなければ、
頼れる度合いなどが不安定かもしれないけど、
「一気に」崩れるリスクは低くなる。
でも、「限定」の誘惑はあるなぁ、常に。
……
たぶん、僕が友人たちを信頼する限り
(友人たちが僕を信頼する限りではなく)、
頼る対象を限定しないやり方は有効な気がする。
今、僕の自己肯定感が低いのは、
僕が友人たちを信頼していないから、
な気がする。
「頼ったら迷惑かなー」
というのは、
友人たちを信頼していないことの表れ、
な気がする。
しかし、本当に迷惑な場合ってないか?
(と考えてしまうこと自体が、自己肯定感の低さに由来するんだろうけど。)