松田青子の小説『持続可能な魂の利用』を読んだ。
「見られる」こと。
「見る」こと。
この本の冒頭には、「おじさん」から少女たちが見えなくなるという記述がある。
「おじさん」は「見る」側であった。
「少女」は「見られる」側であった。
「見る」とは、「おじさんである」ということであり、「見られる」とは、「少女である」ということである、と言っても言い過ぎではないのかもしれない。
だとしたら、「おじさん」から「少女」が見えなくなるということは、「見られる」という事態そのものがこの世からなくなるということだ。
それは論理的に、「見る」という事態そのものがこの世からなくなるということでもある。
この本は、「見る」―「見られる」という力関係における仕方ではないかたちで、どのように私たちが「存在」できるのか、ということを模索した作品なのかもしれない。
「存在」することについての議論は、もしかすると、これまで、「見る」―「見られる」という枠組みに囚われすぎていた可能性がある。
このことはつまり、「存在」することについての議論が過剰に「おじさん」的(「おじさん」―「少女」的)だったということである。
「見る」ことなく=「見られる」ことなく、「存在」すること。
それはおそらく「自由」と呼ばれてもいいような事態であろう。
そして、もっと言えば、「女である」とその事態を呼んでみてもいいのかもしれない。新たな呼び方、新たな概念として。
もちろんこの呼び方は、「男である」―「女である」という通常の枠組みにおける呼び方ではない。つまり、「おじさん」―「少女」的な呼び方ではない。
この新たな「女」概念は、「おじさん」から「少女」が見えなくなった世界での概念である。つまり、女の世界から男がいなくなった世界での呼び方である。
「男」がいない世界での「女」。
(一応補足しておきますが、この拙文における「女」「男」「おじさん」「少女」といった語は、概念でいろいろ試してみようという意図で使われているものであり、一般に想定される(例えば生物学的な分類における)意味で固定的に使われているわけではありません。)
そこでは、これまで(「おじさん」的に)想定されていた「存在」の仕方とは別の仕方での「存在」の仕方が生まれる。
例えば、この本では、自分の「名前」や自分の「身体」というものが一つに定まらなくなった世界が描かれたりする。
おそらく、それは、「名前」や「身体」が、「見る」―「見られる」という枠組みの中でしか意味を持たないものであるからだろう。
「見る」―「見られる」ことがなくなったとき、あるいは、今よりもそれがなくなっていく方向へと世の中が進んでいくとき、そこにどんな世界が生まれるのか、どんな存在の仕方が生まれるのか。
そこに、ある種の希望、あるいは可能性を感じさせる本である。