哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

脚本と、それについての友人とのやりとり

機会があり、脚本というものを書いてみた。
お題は「桃太郎」、長さは「5分くらい」、という条件で。

その脚本の全文と、それを読んだ友人と僕とのやりとりを載せる。
誤字や句読点の位置など、若干の修正のした。
ブログ記事にするにあたり補足説明として加筆した部分は〈 〉に入れた。


僕の書いた脚本

「最後の桃太郎」


登場人物
唐川(二八歳 会社員、大学時代は小島と同級生)
小島(二八歳 大学院生、民俗学専攻、博士課程)



  唐川の部屋。
  唐川が切った桃を持って部屋に入ってくる。座って桃を食べ始める。

唐川「ん? 小島の匂い? うん、さっき来るって連絡あった」
小島「唐川~!」
唐川「あいてるよ!」

  小島が部屋に入ってくる。

小島「おう」
唐川「ん」
小島「また桃食ってんのか! 好きだなぁ!」
唐川「うん」

  小島、「よいしょ」とか「は~」とか(なんでもいい)言いながら座る。

唐川「で、なに」
小島「ん?」
唐川「何の用」
小島「なんだよ~気が早いなぁ」
唐川「(視線で促す)」
小島「唐川……婚活パーティー行こうぜ!」
唐川「いや、俺はいいよ」
小島「そんなこと言わないでさ~」
唐川「っていうか小島彼女いるじゃん」
小島「別れた」
唐川「え?」
小島「別れた!」
唐川「……なんで」
小島「人身御供(ひとみごくう)の話ばかりするのがイヤだって言われた」
唐川「またかよ!」
小島「まただよ~」
唐川「何回やったら気ぃすむんだよ、生贄で人が殺される話なんて誰が聞きたいんだよ」
小島「(ため息)」
唐川「研究の話はするなって言ってんじゃん」
小島「俺は仕事とプライベートを切り離さない主義なの」
唐川「はぁ、勝手にしろよ」
小島「だから婚活パーティー行こうぜ!」
唐川「俺はいいって」
小島「行こうぜ!」
唐川「いい」
小島「唐川ずっと彼女いないじゃん」
唐川「べつにいい」
小島「どうしても行かない?」
唐川「行かない」

  (少し間を置いて)

小島「そっか~! 行かないか~! 一人じゃ不安だよ~!」
唐川「頑張って」
小島「冷たい」
唐川「うん」
小島「彼女に振られて、俺、傷心中」
唐川「知ってる」
小島「知っててそれ?」
唐川「知っててこれ」
小島「うわ~ん(泣きマネ)」
唐川「(無表情で小島を見る)」
小島「凍りつくような視線!」
唐川「(鼻で笑う)」
小島「じゃ、俺は帰るよ」
唐川「え、婚活の話だけ? それでわざわざ来たの?」
小島「うん。……あと、振られたっていう報告と」
唐川「そう」
小島「じゃあな」

  小島、立ち上がって部屋から出ていこうとする。

唐川「小島」
小島「ん?」
唐川「あのさ」
小島「おう」
唐川「……」
小島「どうした」
唐川「俺、人を好きにならないんだ」
小島「え?」
唐川「俺、人に対して恋愛感情とか性的な感情とかがないんだ」
小島「へえ」
唐川「知ってるだろ? そういう人たちがいるの」
小島「まあ」
唐川「俺、それ」
小島「そうなんだ」
唐川「うん」
小島「なんか、ごめん」
唐川「いや、べつに。……そういう人たちが集まる団体にも行ったことあるんだ。ちょっと雰囲気が合わなくて今は行ってないけど。この世に自分と同じ人がいるって分かってるだけで結構安心するもんだよ」
小島「そっか。……言ってくれてありがとう」
唐川「うん」
小島「唐川」
唐川「ん?」
小島「それ、俺以外の人に言わない方がいいかも」
唐川「そんなことお前に言われなくたって分かってるよ」
小島「いや、そうじゃなくて」
唐川「は?」
小島「そうじゃなくてさ……」
唐川「なんだよ」
小島「唐川、桃太郎って知ってるか」
唐川「知らない」
小島「桃太郎っていう昔話があるんだ。浦島太郎とか鶴の恩返しとかと同じような」
唐川「それがどうしたんだよ」
小島「桃から生まれた人間が鬼をやっつけるって話なんだけど、昔は有名な話だったらしい。でも二〇〇年くらい前に突然消えた。本も売られなくなって今ではほとんど誰も知らない。(一呼吸置いて)なんでそうなったのかはよく分かってない。資料がほとんど残ってないから」
唐川「なんで残ってないの」
小島「分からない。でも、意図的に消されてるのかも」
唐川「は? どういうこと?」
小島「資料が少ないから信憑性は高くないかもしれないけど、俺が調べたところによると、二〇二〇年頃、日本で、「俺は桃太郎だ」って言う人が現れ始めた。「桃から生まれて、人間じゃなくて桃が好きな、桃太郎だ」、って。その声は段々拡がっていって、桃太郎と自称する人たちが集まる団体やコミュニティもいくつかできた。でもある時、桃太郎たちが集まるバーで警官たちとのトラブルがあって、それを境に、そういう団体やコミュニティも、桃太郎たちも、桃太郎という昔話も、消えていった」
唐川「意味が分からない。なんでそれで消えるの」
小島「桃太郎たちに「危険」を感じた人たちが、彼らを「排除」していったんじゃないか、と書いてある資料がある」
唐川「「排除」?」
小島「そして、それは今でも続いているんじゃないかって。まあ、その資料も一〇〇年近く前のものだけど。でも、現に今は桃太郎と自称する人たちはどこにもいないし、そういう人たちがいたことさえほとんど誰も知らない。昔話も消えた。研究者もいない。資料も少ない。すごく不自然。「人に言わない方がいい」って言ったのはそういう意味」
唐川「でも、俺はただの桃好きの無性愛者だよ。っていうか、自分のことを桃太郎だって言ってた人たちもそうだったんじゃない?
桃から人が生まれるわけないし。小島、お前にしてはちょっとオカルト過ぎだよ」
小島「なぁ」
唐川「なに」
小島「前からもしかしてって思ってたんだけど、唐川、動物と話せる?」
唐川「え」
小島「動物との交渉能力が桃太郎の最大の特徴。昔話の中の桃太郎は鬼を倒すために動物たちと交渉して仲間になったんだ。そして、警官とのトラブルがあった時も、そのバーにたくさん動物たちがいた。それが「危険」だと判断されて「排除」された。……唐川、この犬と話したりしてないか」
唐川「……」
小島「唐川」
唐川「帰れよ」
小島「……」
唐川「帰れ」
小島「からか」
唐川「帰れって!」
小島「……分かった。帰るよ。でも、何か困ったらいつでも言えよ。俺は仲間だぞ」

  小島、出ていく。
  唐川、しばらくしてから立ち上がり、別の部屋から包丁と大量の桃を持ってくる。桃に切り込みを入れて中身を確認していく。ある程度それを繰り返したところで、包丁を置く。



終わり


………


友人とのやりとり。
友人の名前はAにしています。


Aの発言

桃太郎、面白かった!
星新一ショートショートとか、稲川淳二の短編ホラー漫画みたいなノリで好き。


ただ、冒頭のセリフ(小島の匂い〜)の伏線は読み返すことを前提にしてるように感じた。


後半の長ゼリフは、この短さの芝居だと違和感あるかも。


面白いけども、短編演劇というよりも短編小説に近いように感じました!

………

谷の発言

ありがとう!

冒頭の台詞は、役者の芝居でなんとか観てる人の印象に残すことはできないかな〜と思ったけど、やっぱあれだけじゃむずいかな……
もう一、二箇所、犬に話しかけてるセリフを入れた方がいいのかなー

長セリフ……なるほどなぁ

やっぱ、わしは、舞台上でどう見えるのかを想像する力が足りない気がする。
それはなぜか。たぶん、「文章だけ」で面白いもの、「文章だけ」で完成したものを書きたいという欲望が強いからなんだろうなと思う。それが強い分、舞台上でどう見えるのかを想像する欲望が相対的に弱くなってる気がする。

〈Aの「ただ、冒頭のセリフ(小島の匂い〜)の伏線は読み返すことを前提にしてるように感じた。」という発言に対して〉
確かに読み返すことを前提にしてる。
「ただ」って書いてるから、A的には、読み返すことを前提にするのは良くないこと、っていう位置づけなんだと思うけど、それってどういう意味で?

………

Aの発言


〈犬の存在を匂わせるやり方について〉
唐川が何度も犬に話しかけると少しあざといから、

小島「お前のご主人様は冷たいなー(ふざけた調子)」
唐川「やめろよ、困ってるだろ」

とか

小島「愛犬への優しさを少しは友人に向けてもバチは当たらないぞ」

とか小島を使って匂わすと自然かも。

冒頭のセリフだけだと、犬の存在自体が希薄だったかも

〈谷の「文章だけで完成させる欲望」について〉
「文章だけで完成」
しっくりきた。
文章としてみたら、伏線も説明も回収も違和感なく完成してると思う。


〈谷の「A的には、読み返すことを前提にするのは良くないこと、っていう位置づけなんだと思うけど、それってどういう意味で?」という発言に対して〉
1、芝居だと観客は1回しか観ないし、「読み返す」ことが出来ないから。

2、冒頭は観客が芝居に集中しきれてないため、細かいセリフは印象に残りづらいから。

3、「読む」より「聞く」方が古い情報が記憶から流されてしまうから。

2と3は俺の偏見かもしれないけど、以上の理由。

………

谷の発言

〈犬の存在を匂わせるやり方について〉
なるほど、小島を使うのか。あ〜


〈Aが「読み返すことを前提にするのは良くないこと」である理由として挙げた1〜3の理由について〉
なるほど、芝居にした時の観客側の立場に立つと、っていうことね。それなら分かる。

「脚本を読む」場合の(つまり芝居を「作る」側の)話かと思ったから、訊いてみたのさ。


〈読み返すことを前提にする云々の話の続き〉
そうか、今分かった。

「読み返す」前提、って書いてあるのを、わしは、(芝居にした場合を想定したダメ出しではなく)文章に対するダメ出しだと解釈した(「読み」返す、だから)んだよね。

でも、Aが「読み」返すって書いた意図はたぶんそうではなくて、
芝居にした場合が想定されていない(=文章として読まれることしか想定されていない=その場で読み返すことができるもの、という想定で書かれている)、という点に対するダメ出しだったのか。


この前者の解釈をわしがしてしまうということ自体が、わしが「文章だけで完成」させたいという欲望を強く持っていることの証なのか……!


つまり、

わしは、「読む」ものとしてはこうこうこうした方がいいよ、という種類のダメ出しをAから受けたと解釈したんだけど、

Aは、脚本はそもそも「読む」ものであってはいけないんだ、という意味のダメ出しをしていた、

ということ。


もしこの解釈が当たっていたとしても、Aが意識的にそういう意味のダメ出しをしていたかは分からないと思った。無意識かも。

なんでそう思ったかというと、Aがさっき挙げてくれた3つの理由を見ると、単純にそれだけの理由なら「読み返す前提」とは書かずに、「観返す前提」と書くのではないかと思ったから。
そこを「読み返す」と、あえて「文章に対する」ダメ出しかのように表現したことに、あの3つの理由に収まらない(もしかしたらA自身も意識していない)何かをわしは感じたの。その何かが、さっき書いた「脚本はそもそも「読む」ものであってはいけないんだ」ということ。

………

Aの発言

なるほど!

自分以上に自分の考えを正確に分析されてしまった。

そこまで深くは考えてないけど、そういう思い(「読むもの」ではない)はあった!


「観るもの」ではなく「読むもの」として書かれていることに対する懸念が、こういう言い方〈=「面白いけども、短編演劇というよりも短編小説に近いように感じました!」〉をさせたんだと思う。


確かに一連のやりとりから、谷の「文章で完成させる」という意識は強く感じた。


正直、何で谷はここ〈=読み返すことを前提にするのが良くないということ〉の意味が気になったんだろう、って最初は思った。

俺と谷の脚本に対する価値観の違い(読むものor観るもの)が出てたんすね。

面白い!

………

谷の発言

当たってたのか!
すごい!わし!
……😅


脚本に対する「価値観の」違い、って言えるのかな……?

脚本は「観るもの(を作るためのもの)」であることは明白なわけだから、そこでわしが「読むもの」としてそれを書くということは、もう脚本という言葉からすれば語義矛盾と言っていい。
つまりわしは、脚本を書いてるつもりで脚本を書いていなかった、ということになると思う。脚本の形式をとった小説を書いていた、みたいなことだ。

だから、「価値観の」違いというより、単にわしが間違っている(実際は小説なのに「脚本です」と言っていたから)と言ったほうが適切な気がする。


まあ、「脚本に対する」価値観の違いではなくて、文章を書くこと全般における価値観の違いと言えば、そうなのかもしれない。

わしは、ちょっと、脚本を馬鹿にしてるところがある気がする。脚本を、っていうか、もう少し正確に言えば、文章だけで完成することを目指さない文章を、かな。
なぜかと言えば、おそらく、そういう文章を書くモチベーションがわしの中にあまりにも存在していないからだと思う。なぜそういう文章を書く必要があるのか、わしは「感覚的に」よく分かっていないんだよね(「理屈では」もちろん分かる。演劇を作るためだ)。


なぜそういう文章を書くモチベーションがわしにあまり存在しないのか、はちょっと考えたいところだ。


理由として一番大きいと思うのは、脚本を読んだ回数、演劇を観た回数が少ないため、脚本というものがどういうものなのかのイメージがわしの中であやるやだから、ということ。例えば、山に登ったことがなく、それどころか山というものを見たこともなく、それゆえ山登りのイメージが定まっていない人が、「山に登りたい」と思うだろうか?(思うこともあるだろうけど、その場合は、ストレートに「山登り」について考えているとは違う仕方でそう思ってる気がする。例えば、山登りの経験を聞かせてくれたある人がすごく魅力的な人だったから、その人がやってる山登りというものはきっと魅力的に違いない、みたいな)。

その、脚本に対するイメージがあやふや、ということが、次の事態も帰結させていると思う。
すなわち、脚本を書ける人たちや脚本を読んで面白がれる人たちの中でわしが疎外感を感じる、という事態だ。
わしは、脚本を読んで面白いと感じたことが(たぶん)ない。それは、脚本のイメージがあやふやである→脚本というものがどういうものか感覚的に分かっていない、がために、脚本の読み方、脚本の楽しみ方が分かっていないからなんだと思う。
そういう状態だから、演劇をやっている人たちが脚本について話していたりするところにいると、その中に上手く入り込めなくて疎外感を感じる。
その疎外感という感情を誤魔化すために、脚本を馬鹿にするという方法を取っているのではないか、という感じ少しがする。まあ、もう少し抽象化すれば、疎外感によって自分(の価値)が下がってしまっている感覚(→自分はダメだ)が生じており、それを埋めるために、脚本や脚本を楽しめる人たちを馬鹿にすることで自分(の価値)を上げる(→自分はダメじゃない)、ということ。


別の角度から、わしが脚本を書けない理由を述べてみる。

わしは、文章を書くことを、「自分を抉り出す」ことだと思っている。そして、わしは自分を抉り出す欲望が強い。

わしが自分を抉り出そうとして文章を書くと、「自然と」それは論文や小説の形を取る。だから、「論文を書く」「小説を書く」ことに特別な労力を使う必要はない。

脚本の形には「自然と」はならない。
だから、脚本を書くためには、「脚本を書く」ことに特別な労力を向けなければならない。そうすると、自分を抉り出すことに集中できない(ような気がする)。だから脚本を書く気にあまりならない。

なぜ論文や小説には「自然と」なるのに、脚本の場合はそうではないのか。
一つは、やはり、論文や小説を読んだ経験が多いが、脚本を読んだり演劇を観たりした経験は少ない、ということが挙げられると思う。

でも、それだけではないと思う。

やはり、文章だけで完成するものを書きたいという欲望が重要だろう。なぜわしにはそのような欲望が強くあるのか。おそらく、「自分を抉り出す」というわしの欲望がここで関わってくる。

脚本に求められることで最も重要なことの一つは、「他者を生かす(活かす)」ことだと思う。つまり、役者を生かすこと。しかし、わしは「自分」を抉り出したいのであって、基本的に「他者」には興味がない。だからわしは脚本が書けないのではないか。


(とは言え、「自分を抉り出す」ということにおいて重要なのは、「自分」よりも、「抉り出す」ことだ、ともわしは思う。つまり、抉り出す対象が自分なのか他者なのかは本質的には重要ではなく、とにかく何であっても抉り出しさえすればいい、ということである。その方向でわしのあり方を模索していけば、脚本(=他者を生かすもの)を書く欲望がわしの中で高まる可能性はあると思う。)

(ちなみに、「生かす」ことと「抉り出す」ことは非常に近い事象である。「抉り出す」とは、それまで暗いところに隠されて見えなくなっていたものを掘り起こして明るい場所に持ってくること、言い換えれば、死にそうになっていたものを見つけて生かそうとすること、だからである。)


(でも、「自分を」生かす(≒抉り出す)ことと「他者を」生かす(≒抉り出す)ことは、矛盾することではないと思う。そう思うと、「他者を」生かす方向へ直接的に舵を切らずとも、「自分を」生かす方向を突き詰めることで他者をも生かせるようになる、という道もある気がする。そちらの方がわしにとってはやりやすい気がする。その場合もやはり、「自分を抉り出す」ことにおける重要事は「自分」ではなく「抉り出す」ことに、最終的にはなっていくのだと思うが。)