脚本は、言葉でできている。
脚本は言葉でできていなければならない。
なぜなら、それは表現されるものだからである。
それに対して、小説は、物体である。
物、である。
脚本には、あらかじめ2つの側面が想定されている。
表現される前の、単なる言葉としての側面と、
表現されている時の、表現される言葉としての側面である。
脚本は、二重である。
小説は、1つの側面しかない。
物体としての側面。
それだけである。
小説はそれだけで完結している。
小説は、言葉というよりは、文字でできている。
(脚本ももちろん、それが誰かの頭の中にあるのではなく、その外部に「書かれた」ものであるのだから、文字でできてはいる。しかし、脚本には、文字の「文字性=物体性」なるものはあまり重要ではない。)
小説を原作にした映画やドラマがある。
当然、小説をそのまま脚本として使うことはできない。
小説を脚本化する、という過程が必要である。
文字を、言葉にする。
物体を、言葉にする。
僕の頭には、庭を脚本化する、というようなイメージが浮かぶ。
物を言葉にする。
小説も脚本も文字で書かれるものだけれど、その間には大きな断絶がある。
小説をそのまま脚本として使うことができないのは、小説が物体だからである。
小説は、物体であるという意味で、脚本よりも、庭とか彫刻とか家とか、あるいは、山とか空とか、そういうものに近い。
ある庭を映画化しようとする時と同じ困難が、小説の映画化にはある。