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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

物体としての小説 脚本との対比 映画化・ドラマ化の困難について

脚本は、言葉でできている。
脚本は言葉でできていなければならない。
なぜなら、それは表現されるものだからである。


それに対して、小説は、物体である。
物、である。


脚本には、あらかじめ2つの側面が想定されている。
表現される前の、単なる言葉としての側面と、
表現されている時の、表現される言葉としての側面である。

脚本は、二重である。


小説は、1つの側面しかない。
物体としての側面。
それだけである。
小説はそれだけで完結している。

小説は、言葉というよりは、文字でできている。

(脚本ももちろん、それが誰かの頭の中にあるのではなく、その外部に「書かれた」ものであるのだから、文字でできてはいる。しかし、脚本には、文字の「文字性=物体性」なるものはあまり重要ではない。)



小説を原作にした映画やドラマがある。

当然、小説をそのまま脚本として使うことはできない。
小説を脚本化する、という過程が必要である。

文字を、言葉にする。
物体を、言葉にする。

僕の頭には、庭を脚本化する、というようなイメージが浮かぶ。
物を言葉にする。


小説も脚本も文字で書かれるものだけれど、その間には大きな断絶がある。


小説をそのまま脚本として使うことができないのは、小説が物体だからである。

小説は、物体であるという意味で、脚本よりも、庭とか彫刻とか家とか、あるいは、山とか空とか、そういうものに近い。

ある庭を映画化しようとする時と同じ困難が、小説の映画化にはある。