哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

嬉しかったこと

ある人と一緒にいる時、ふと、「ああ、僕は、この人の嫌がることはしたくないなぁ」と思った。

逆に言うと、「この人とは、この人がしたいことだけをしたいなぁ」ということだ。

これは、その人の気持ちを優先し、僕自身の気持ちは殺す、ということではなかった。

つまり、僕がその人について、「あ、この人、これはしたくないんだな」と感じると、自然と僕の中でも、それをしたいと思う気持ちが弱まってくるということだ。
これをこの人と一緒にしたい、と僕が思い、それをその人に提案したら、その人がそれは嫌だと言ったとする。その時、僕は、それをするのを「我慢」するのでは “なく” 、「この人が嫌だと言うなら僕も嫌だな」と自然と思えてくる、ということだ。(それをしたいという気持ちが「完全に」消えるわけではないと思うけど。)


まあ、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

目の前の人がイヤイヤやっているのに、自分がそこでそれをストレートに楽しめるかと考えると、けっこう難しいだろうなと思う。
目の前の人が楽しんでいた方が、自分も楽しい。
まあ、当然っちゃ、当然、か。


とは言え、僕の中には、自分がしたいことを他人に提案してそれを嫌だと言われた場合、僕はそれをしたくなくなるのではなく、それをすることを「我慢」する、という場合もあったわけである。
つまり、相手が嫌がってるからそれをすることをやめはするけど、自分の中で「それをしたい」という気持ちはそのまま残り続ける、という場合である。

それが、にわかに変化したのである。


これと関連しそうな記事を、少し前に僕は書いていた。
https://tani55sho44.hatenablog.com/entry/2020/10/19/110648?_ga=2.117691850.257972620.1601486929-825753692.1543544161

この記事で僕は、「僕がセックスをする時、相手が「いやいや」それをするということを、僕は自ら「望んでいる」、という仮説」を立てたり、「相手がセックスを「いやいや」している方が、そうでない場合よりも、僕としては「気が楽」であるように感じられる」と書いたりしているが、今は、このようなことはほとんど思わなくなっている。というか、今は、あまり自分の中でこのようなことが問題とならなくなっている(このような記事を書いたということは、その頃、このようなことが僕の中で、何らかの仕方で整理したり解決したりする必要のある問題となっていた、ということだ)。


なぜ、突然、僕の感覚がそのように変化したのかは今のところ分からない。

まあ、変化と言っても、その変化(=一緒にいるその人が嫌がることはしたくないと感じるようになった)は、その変化が起こった時に一緒にいたその特定の人物にしか適用されないのかもしれない、少なくとも、誰にでもそう感じるとは限らない、とは思う。相手によっては、僕が「我慢」することもおそらくあるだろう。それに、その人だけに限ったとしても、「いつでも」そう感じるとも言えないと思う。その時だけそう思えたとか、そう思える時もあるとかいうことなのかもしれない。

とは言え、少なくとも、「その人に関して」だけは、且つ、「そのとき」だけは、明確な変化があったことは確かなのである。普遍性や持続性がなくても、とにかくその変化(というか出来事?)があった、ということが重要だと思う。




「この人が嫌がることは僕もしたくないな」と思えた時、僕は、かなり気持ちが楽になった。

具体的に言うと、その人に対して、その人と一緒にしたいことを今までよりも気楽に提案できるようになる気がした。
なぜなら、もし提案したことが嫌がられても、その人が嫌がったことによって、僕も一緒にそれが嫌になるからだ。つまり、「僕はしたいのにその人はしたくない」という、お互いの意識の非対称性がなくなるからだ。「僕はしたいのにその人はしたくない」という状態は、苦しい。「したいのにできない」からだ。「我慢」しなければならないからだ。でも、「相手がしたくないなら自分もしたくないな」と自然に思えるなら、楽だ。
そう思えそうだ、と感じたから、その人と一緒にいる時の気分が以前よりもかなり楽になった。


この変化が起こって、僕は嬉しい気持ちになった。まあ、気持ちが楽になったのだからそりゃあ嬉しいだろうけど、それだけじゃなく、目の前にいるその人を、より一層信頼できるようになった気がしたから、嬉しかったのかもしれない。その人とより一層友達になれたという感じ。その人のことがより一層好きになって、そうなることで、自分のこともより一層好きになれた気がする。それが嬉しかったのかもしれない。