哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

論理は友達

論理とは何だろう。
論理が僕は好きなんだろうな、と思う。
論理は無機質ではない。
論理も、物質であると僕は感じる。
論理も生きているのだ。
生きたものなのだ。
物質は全て生きている。
石とか、机とか、なんでも、生きている。
論理も同じだ。
 
というか、生きていないものなどあろうか。
すべてには命がある。
だから、愛を向けることのできないものなどない。
全てが友だ。
 
「論理で言われても、私は納得できない」と言われたことがあって、それに対して今ここで反論しようとしようとしてこれを書き始めたのだが、その人は「論理で言われても」と口では言っていたけど本当に「論理だから」納得できなかったのか単に僕の言ったことに納得できなかっただけなのか、どちらなのか分からないな、と思った。
 
その人も、論理も、石も、机も、ただ単に、「僕の隣りにあるもの」だ。
「友」とはそういう意味だ。そういう意味でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。
それを「隣人」とキリスト教では言うの、か。
 
そのレベルで他者と共にいる場合にしか、他者を大切にしてはいけないのではないか。
他者を、隣りにあるもの以上のものだと思ってしまったら、自己犠牲になってしまう。
他者を、隣りにあるもの以下のものだと思ってしまったら、他者を道具化してしまう。
自分のためでもなく、他者のためでもなく、しかし他者を大切にすること。
何のために大切にするのか?
なぜ人は、他者を大切にするのか?
他者を本当に大切に思うときがあるのはなぜなのか?
他者?
他者とはなんなのか。
他者は存在するのか。
人がこの世界に生きていることに、僕は感動するのだけど。
 
……
 
北海道は寒いね。

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