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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

自殺しないことを選ぶ、とは 続き

 前回の続きです。

 僕の人生には、「あ、自殺しないで生きていけるかも」と思えた瞬間が(僕の記憶上では)二度あります。そのうちのニ度目の方について書きます(一度目についてはいつか書くかも)。

 僕はある時、「そうか、僕は自殺しないことを自分で選んでいるんだ」と思ったんです。そうしたら、心がスッと軽くなって、まだしばらくは生きられる感じがしたんです。特に何かきっかけとなるような出来事があったわけでもなく、突然、そう思いました(たぶんですが、その頃キェルケゴールスピノザを読んでいたのでそれが影響していたのだとは思います)。

 なぜ心が軽くなったのでしょう?
 正直、僕にもまだよく分かっていません(←分かってから書けよ?笑)。なぜ心が軽くなったのかも分からないし、なぜ自分が自殺しないことを選んでいるのかも分かりません。
 でも、一つ言えるのは、僕が自殺しないのは、「ポジティヴ」な行為なんだ、ということです。「ポジティヴ」というのは、心情的なことではなく、欲望の構造としてです。例えば、写真の陰画・陽画の陽画の方ということです。

 つまり、僕が選んでいる「自殺しない」という行為は、「自殺する」という行為の陰画(裏側、反転面)ではないということです。「自殺する」という「ポジティヴ」な行為に従属するものではない、「自殺する」の反対としてのものではない、ということです。
 言い換えれば、「自殺する」と「自殺しない」は互いに独立した行為だということです。「自殺したい」と「自殺したくない」は互いに独立した欲望だということです。「自殺する」と「自殺しない」は無関係の行為だ、ということです。「自殺したい」と「自殺したくない」は無関係の欲望だということです。
 それぞれがどちらも「ポジティヴ」な行為、欲望、選択なんです。どちらも陽画なんです。

 このことは、「自殺したい」という欲望と「自殺したくない」という欲望が同時に矛盾せずに存在できるということも意味します(実際の行為となると……どうでしょう、いつか考えてみます)。
 「自殺しない」が「自殺する」のネガティヴ面でしかないならば、両者は同時に存在できません。「リンゴがある」と「リンゴがない」が同時に成り立たないのと同じです。でも、「リンゴがある」と「ブドウがある」は同時に成り立ちます。

 だから、僕が選んでいるのは、正確には、自殺「しない」ということではなく、「生きる」ということなんですね(じゃあなぜ、ブログのタイトルや自己紹介文に、「生きる」ではなく「自殺しない」が使われているのか、というのは、またいつか書くかもしれません)。

 こういうことにふと気づき、僕は心が少し軽くなりました。こういうことに気づいたことがどういうふうに作用して心が軽くなったのか、まだ僕には分かっていません(分かったら書くかもしれません)。
 とりあえず、僕はこんなふうに思って、その結果、心が少し軽くなりました。僕の場合はそうでした。

 また、何か書けたら書きます。