哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

はっきりしている時にだけ。。

 スピノザは『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』の最後に、「私がこれを書き与える友人たちに次のことを言う」と述べ、いくつかのことを書く。下はその中の一つ。

「我々の生存しているこの時代の性格の如何なるものかは諸君も知らなくはないのだから、私は諸君が、これらのことを他人に伝えるについては、充分用心せられんことを切にお願いする。私は何も、諸君がそれを全然諸君の胸一つにしまって置くようにと言うつもりはない。ただ、いやしくもそれを誰かに伝えにかかるとしたら、単に諸君の隣人の幸福より以外の目標を持たないように、そして同時に、諸君の骨折りが報いられずにいないだろうことがはっきり見込まれている場合に限るように、というつもりなのである。」(スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』畠中尚志訳 岩波文庫 2005年 p209-210 旧字体等は適宜改めた)

 隣人の幸福以外の目標を持たないように、というのは分かる。
 でも、骨折りの報いが、つまり、隣人の幸福が、はっきり見込まれている場合に限るように、というのが、まだ飲み込めない。はっきり見込まれるなんてことはほとんどないのではないか、と思える。その少ない機会にしか伝えてはいけない、ということなのか。
 もちろん、ここでスピノザが述べていることは、この本の中で彼が語ってきた理論から導かれることであろう。したがって、ここまででスピノザが言っていることの全体を僕が理解していないということになるだろう。

……

 僕の中には、「相手は理解しないかもしれないけどとにかく言っておきたい」という欲望があるのだろうと思う。だからスピノザの言うことが理解できないのだ。スピノザの言っていることと僕の欲望が対立しているのである。
 この「相手は理解しないかもしれないけどとにかく言いたい」という欲望は、「隣人の幸福」という目標と対立しているのかもしれない。僕の意識上では、「もしかしたら伝わるかもしれない。少しでも伝わる可能性があるなら(=隣人の幸福が実現する可能性があるなら)とりあえず言っておこう」という思いがある。これが僕の欲望のあり方と合致しているのなら、僕の欲望は「隣人の幸福」という目標からはみ出してはいないだろう。しかし、僕の意識が僕の欲望を完璧に理解しているとは思いにくい。
 僕の中には、「隣人の幸福」という目標よりも、「とにかく言う=言って自分がスッキリする、気持ちよくなる」といった目標や、自分の言いたいことが隣人に伝わらないことによって「骨折りが報われなかった《可哀想な自分》」というアイデンティティを持つという目標、あるいは、「相手はレベルが低いから僕の言うことが理解できないのだ」などと思って優越感を持つという目標などが、強くあるのかもしれない。要検討(スピノザの言う「時代の性格」も考え合わせて)。