哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

生きることとしての自殺すること

 前回書いた文章を受けて、少し違う角度から。

 僕は、自殺することも、生き方の一つのあり方だと捉えているみたいです。

 そもそも、人間は(と言うか生物は、ですかね)、自分の死を経験できません。あるいは、少なくとも、自分の死の半分しか経験できません。つまり、死ぬ瞬間「まで」は経験できるけれど、死ぬ瞬間「から」は経験できません。

 そういう意味では、人間は生きることしかできないんです。

 人間(生物)は何をするにもエネルギーを使います。生きているあいだは常にエネルギーを使っています。生きることとはエネルギーを使うことだ、と言っても間違いではないでしょう。
 自殺するにももちろんエネルギーを使います。首吊りをするならロープを買ってこなければならないし、飛び降りをするなら高い建物にのぼらなければなりません。自殺をするという行為の最中はずっとエネルギーを使っています。つまり、生きています。
 自分の命を消すために自分の命を使う。命を消すことへ向けて、生きる。それが自殺だと思います。人間が生きることしかできないのなら、そうなります。

 だから(?)、僕は、「自殺は絶対しちゃいけない」と思いません。
 「自殺は絶対しちゃいけない」としたら、自殺した人は、「絶対しちゃいけない」ことをしたということになります。そうなると、その人の人生ってどうなっちゃうんでしょう。「絶対しちゃいけない」ことをした人生と言うと、まるで「ダメな人生」のように聞こえてしまうのは僕だけでしょうか……。
 その人はそういうやり方でしか生きられなかったんだな、と僕は思います。そういうやり方でしかエネルギーを使えなかったんだな、と。
 いや、むしろ、その人はそういうやり方で生きたんだ、と言いたい。「そういうやり方でしか……」という言い方ではなく、「その人はそう生きた」という言い方をしたい。

 以上のように、僕は自分自身の自殺を肯定・許容しようとしています。でもそれは、そう考えた方が生きやすいからでもあります。

 なぜ、そう考えると生きやすいんでしょう?