哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「生存する」だけでも芸術?

 僕は今、無職です。

 一人暮らし、貯金は9万円。

 えーと、ヤバイです笑(僕の感覚では)

 …………


 僕は一週間前にアルバイトを辞めました。なぜ辞めたかというと、まあいろいろあったわけですが、一番大きいのは、「生存するために働く」という形式で働くことが突然イヤになってしまったからです。ホントにイヤでイヤで仕方なくなってしまった。憂鬱すぎて身体が重ーくなった。すぐに、「あ、辞めよう」と思いました。

 とは言え、生きなきゃいけない。と言うか、僕は死ぬ気はない。生きる前提でとりあえずどうすればいいか考える。

 何がイヤかと言うと、「ために」の部分なんですよね。生存する「ために」働く。この、「生存する」と「働く」が「ために」によって分かれてしまっているのが、生理的に無理になっちゃった。
 もう一つは、その「ために」がくっついているのが「生存する」という、なんかメチャクチャ動物的なものであるということ。「ために」で分かれちゃっていると言っても、その「ために」が何か魅力的なものとくっついてるならいいんですよ。でも、え! 「生存するため」!!?? と思っちゃった。
 いや、まあ、僕が勝手にそういうふうに生きちゃってただけなんですけど。まあ、そういう自分の生き方に嫌気が差したわけです。

 「生存する」「ために」があることで、「働く」が、ものすごく貧相に感じちゃったんですよね。「わし、働くことを全然まっとうしてないじゃん!」って。「生存する」「ために」の方にばかり気を取られて、「働く」ことに全然集中できてない。そりゃあ、つまらないですよね、集中してなかったら。楽しくない。もう無理。

 じゃあどうする。
 まず考えたのは、「生存する」をとりあえず脇に置いておいて、「働く」という方だけに集中してみよう、ということです。「働く」こと自体を楽しめるような仕事、「生存する」「ために」を忘れられるくらい没頭できるような仕事に就こう、と。まあ、ざっくり言えば「やりがいのある仕事」をしよう、みたいなことです。僕はこれまで「生存する」「ために」しか働いてこなかったので、これは僕にとっては新しい試み。

 でも、すぐに無理だ! と思ってしまった。「生存する」「ために」を全然忘れられない!……んですもの笑 生存できなくなるのが怖すぎる! 怖すぎてずっと頭の中にいる!
 まあ、働き始めていないのでまだ分からないですけどね。働き始めたら、忘れるのかもしれないですよね。

 いや、でも、「生存する」「ために」って、忘れていいものなのか? とかも思う。「ために」はまだしも、「生存する」は結構人間にとって大事な要素じゃないか? みたいなね。

 それじゃあ逆転してみるか。
 つまり、「働くために生存する」。
 これ、とりあえず言葉の上では考えてみたけど僕にはピンとこないのでとりあえず保留。

 そう考えていくと、次のような考え方が浮かんできました。
 「生存する」ことと「働く」ことをイコールで結べないだろうか? という。
 「ために」で結ぶのではなく、イコールで結ぶ。
 と言っても、どういうこと?

 たぶん僕は、「働く」ことを、自分にとってそれ自体で価値のあるものとして、やりたいんですね。それ自体として楽しいこと、それ自体として気持ちいいこと、と言い換えてもいいです。
 「働く」が、「生存するために」というかたちで「生存する」に従属しちゃってるのがイヤ。「生存するために働く」としたら、それ"だけ"が「働く」ことのかたちだとしたら、「生存する」がなかったら「働く」が価値を持たないことになる。つまり「働く」ことがそれ自体で価値を持たなくなる。それを感じちゃった。そしたらもう生理的に受けつけなくなっちゃった。

 とは言っても!
 「生存する」を投げ捨てちゃうわけにはいかない!!
 としたら…… 

 たぶん、僕は、「生存する」の価値をみくびってたんですね。「生存する」なんて価値のないものだと思ってた。人間は生存するだけではダメで、生存した"上で"、何か価値のあることをしなきゃいけない、と思ってた。
 で、たぶん、僕は僕自身をもみくびったんですね。そんな価値のある生き方は僕にはできない、と。そんな体力も才能もやる気もない、と。だから、僕は僕自身を価値のないものとして、ただ「生存する」「ために」「働く」ことを選んでた。

 でも飽きちゃったのね。この生き方つまんないんだもん笑

 それで、「生存する」=「働く」という可能性を考えた。
 つまり、「生存する」ことは「働く」ことだ! っていうこと。
 「働く」ことは「生存する」ことだ、ではないのがたぶんポイント。
 要は、僕は「生存する」ことに全然価値を見てなかったんだけど、「生存する」だけでも立派な人間的活動なんだ! と思ったということ。と言うより、動物的であることが人間的でもあるんだ! と言うか……だって赤ちゃんとか、生存してるだけでメッチャいいじゃん! って。それだけですごくいいじゃん! って。

 話は変わるようだけど、僕はたぶん、芸術を、「生存した」"上で"やるものだと思ってたんだよね。
 でも違うみたい。
 「生存する」ことそのものが芸術になりうるんだよね。と言うか、そういうふうに生きてる人が芸術家なんだろうな。

 余裕なんかない。
 いっぱいいっぱいに、自分の全体を使って、「生存する」人が、芸術家なんだろうな。赤ちゃんみたいに。

 「生存するために働く」って、たぶん、「余裕を持ちたい!」「自分の全体をいっぱいいっぱいに使うのが怖い!」という叫びが表れているんだろうな。


 とか言ってるけど、実際にはまだ何もしてない笑
 机上の空論笑
 まあ、これから僕がどうなっていくか、楽しみですね。
 頭でっかちなだけで、また普通に「生存するために働く」方に戻っちゃうかもしれない、それもできなくて、路頭に迷って野垂れ死にそうになるかもしれない(なぜか野垂れ「死ぬ」まではいかない気がする笑 無根拠笑)。
 まあ、そうなったらそれもよし。
 とりあえず、生きていこー