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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「人間関係」って言葉が嫌い。

 大学時代の指導教官の新しい論文をもらったので読ませていただきました。論文の文章それ自体に言及はしていませんが、読んで思い浮かんだことを書いておこうと思います。と言うか、ここに書いていることは、その論文には全然書いてません。僕が勝手に考えたことを書いてるだけです。でも、その論文を読んで考えたことではあります。



 突然ですが、「人間関係」って言葉、どう思いますか?

 僕は最近、この言葉が妙に気になる、というか、なんだかよく目に入ってきます。
 どんなふうにこの言葉が使われているかというと、「人間関係に疲れた」とか、「人間関係がストレスになっている」とか、「人間関係をリセットしたい」とか……。明るい文脈で使われているのをあまり見ない気がします。

 「人間関係」という言葉は、「人間」という言葉と「関係」という言葉でできています。

 まずは「関係」から考えてみます。
 どうして人間関係に人はうんざりするのか。その大きな理由は、その関係を「維持しなければならない」からだと思います。試しに「人間関係」とググったら、「人間関係を良好に保ちつつ、おしゃべりな同僚を静かにさせるコツ」という記事が出てきて、ちょっと笑っちゃったと同時に、「怖っ」と思った。まあでもこの記事を書いた人の気持ちも分からなくはない(というか分かるからこそ今この文章を書いているんでしょう)。
 関係を維持することにうんざりするのは、関係を維持するために自分の感覚や感情や欲望、つまり自分の「声」(「声」は指導教官が論文の中で使っている用語)を抑えなければならない場面があるからだと思います。まあ、声を抑えたらストレスたまりますよね。と言うか、心的なストレスというのは声を抑えることによってのみ生じるのではないでしょうか?

 じゃあどうするか。声をそのつどすべて出すのか? 出していいのか?
 結論としては、そのつど全部出していいと思います。そうすればストレスはたまらない。

 全部出したら関係が壊れてしまうじゃないか、と思いますかね。
 壊れていいと思います。それで壊れるならそれで壊れる程度の関係だった、ということ。
 っていうか、関係を維持する必要ってあるんでしょうか。日々ストレスをためながら維持するほどの関係って何なんでしょうか。

 っていうかもっと言うと、「関係」なんて「存在する」んでしょうか? 「関係」って何ですか?
 ……「関係」ってなんだ? ほんとに。

 僕たちは、それぞれでそれぞれの人生を生きている。基本的にはそれだけなんじゃないか。そこで偶然出会った人同士で、気が合ったり利害が合ったりしたらその限りで一緒にいて、気が合わなくなったり利害が合わなくなったら離れていく。それだけなんじゃないか。「関係」と呼べるようなものはそこにあるのか? 「一緒にいる」ことはできても、「関係する」ことはできないんじゃないか?

 だとしたら、つまり、「関係」がそもそも存在できないものだとしたら、それを「維持」しようとするなんて不可能です。



 たぶん、「関係」を維持したい(とか「社会」を維持したい)と思うのは、「自分」を維持したいということなんだと思います。自分が属している関係が壊れてしまったら、自分自身も壊れてしまう、と思っている。「関係」が壊れるのが怖いと思う時、その人はきっとその「関係」から自分の考え方や行動の仕方の指針を与えられ、それに従って生きているんだと思います。つまり、自分のアイデンティティ、自己同一性。だから、その「関係」が壊れると、自分も壊れてしまうように感じる。

 じゃあ、「自分」ってなに?


(少し話は逸れますが、「一つの人間関係しかないと不安だから、複数の人間関係に属しておきたい」という人にわりとよく出会う気がするのだけど……これも、関係を「維持」しようとする限り、ストレスはたまり続けるでしょう。まあでも、相対的に気は楽になりそうだとは思うけど。)





 「人間関係」という言葉の、「人間」に注目してみます。「人間関係」という言葉は、「人間と人間が」関係するということを表わしています。上で言った「自分」とは、この「人間」のことだと思います。
 「人間」とは何か。「人間関係」という言葉において言われている「人間」は、おそらく、昨日も今日も明日も同じであるような人間を意味しています。つまり、同一性を時間的に維持している人間。なぜなら、同一性を維持した人間でなければ、他の人間と「関係」を結ぶことはできないからです。「関係」は維持されることを求めます。昨日言っていたことと今日言っていることが全く異なる人と「関係」を結ぶことはできません。

 だとすると、「人間」は自分の「声」を抑圧しなければならないということになる。なぜなら、昨日と今日で考え方が変わるものだし、あるいはまた、同時に相反する気持ちを持つものでもあるからです。「人間」であるためにはそれらの大部分を抑圧しなければならない。そうすることで、「一貫性のある」存在でいなければならない。「人間」は同一性を維持しなければならない。


 ここで、「関係」の時と同じ問いが出てきます。
 つまり、「人間」は存在するのか? という問いです(「人間」を維持する必要はあるのかという問いは省略)。

 僕たちには、様々な「声」が生じている。お腹がすいた、眠い、出かけたい、仕事に没頭したい、足が痛い、太陽が暖かい、なんだかボーっとする、誰かに会いたい、一人になりたい、風が気持ちいい、工事の音がうるさい、メールの返信が遅くてイライラする、上司が意味分からん、なぜだかソワソワする、少し食べ過ぎた、少し食べ足りない、あいつマジムカつく……



 えーっと、それだけなんじゃないか?

 つまり、「声」しかないんじゃないか?
 「人間」なんていないんじゃないか? 「同一性」のある「人間」なんていないんじゃないか?

 「人間」を想定する限り、「人間」が「声」を発する、と思えてしまう。つまり、「人間」が主で、「声」が従のように思えてしまう。
 そうではなくて、「声」が主なのではないか。「声」が僕たちの主人なのではないか。僕たちは「声」に使われている。
 だから、僕たちは「声」に翻弄されている。「声」は無数にあり、それは互いに相反しているからだ。互いに相反している無数の声に僕たちは振り回される。そういうものなのではないか? 振り回されればいいのではないか? そうしなければ、僕たちは「人間」を維持し、「関係」を維持し、うんざりしたまま延々とすごしていくことになるだろう。

 「人間」が存在せず、「声」だけが存在するとしたら、「私」や「あなた」も存在しないことになる。「私」や「あなた」は、「声」が求める限りのものでしかないことになる。「私」や「あなた」を維持する必要はないということになる。と言うか、維持しなければならないものはなにもない。維持しなければならないものがなにもないということは、抑圧しなければならないものがなにもないということだ。あらゆる「声」の存在を認めていいということだ。「人間」の都合で抑圧されていい「声」は存在しないということだ。「声」が存在したいように存在するのを僕たちは邪魔してはいけない。




(「僕」ってなんだ?)