哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

自分の状態を知る方法(具体例・僕の場合)

 前回の記事(https://tani55sho44.hatenablog.com/entry/2019/02/18/042748)で、「今この瞬間の自分の100を感じ取ろう。感じ取って、その自分が求めることだけをして生きよう。それで十分だ。そうしていると、おそらくいつの間にか、その100を突き破ろうとする力が働いてくると思う。その力に身を任せていくと、新たな100の自分が生まれてくるだろう。」と書いた。
 それから数日して、これ、具体的には何をすることなのだろうか、と思い始めた。それについても書いてみた方がいいんじゃないか、と思い始めた。だから書いてみる。

 「今この瞬間の自分の100を感じ取る」とはどういうことか。

 簡単に言い換えれば、これは、「今の自分の状態を知る」ということだ。どうすれば「今の自分の状態を知る」ことができるのか。つまり、その具体的な「方法」は何か。
 まあ、具体的に考えれば、方法は山のようにたくさんあるだろうし、人によっても状況によっても異なるだろう。だから、ここで書けるのは、僕がやっているのはどんな方法か、ということだけだ。


 さしあたり、5つの方法を思いついた。

①自分の快・不快を意識しながら過ごす
 例えば、ご飯を食べているとする。食べていると、もちろん徐々にお腹がふくれてくる。お腹が空いている状態からお腹がふくれていく過程は快だ。しかし、ある程度それが進むと、もういいやという瞬間がくる。その瞬間のあとに食べ続けるのは不快だ。そういう快・不快を意識しながら過ごすということだ。
 そんなことは意識するまでもないことだと思う人もいるかもしれない。しかし、意外とこの快・不快を無視して僕たちは過ごしている。例えば、あと一口食べれば一皿全て食べ終わる、全て食べてしまった方が片付けが楽だ、という状況で、これ以上食べると不快なのにもかかわらず、無意識にその一口を食べてしまう時がある。「無意識に」食べてしまうのだ。不快を無視していることにも気づかずに食べてしまう時がある。
 僕の場合、この方法のポイントは、重要なのは快・不快を「意識する」ことであって、必ずしもその快・不快に従って行動しようとはしない、ということだ。つまり、お腹がいっぱいであることを意識することが重要であって、お腹がいっぱいだからもう食べてはいけない、というふうに自分の行動を必ずしも強制(矯正)しないということである。僕のやることは「意識する」ことだけで、実際の行動をどうするのかは自分の身体に任せる。
 ちなみに、快よりも不快を意識する方が容易な場合が多いと思う。

②文章を書く
 文章を書くことには二つの面がある。一つは自分「を」書き出してみるという面、もう一つは自分「について」書くという面、である。例えば、短距離走の選手は毎日走っており、自分のその走りについてそのつど分析しているだろう。書くことの一つ目の面は「走ること」、二つ目の面は「分析すること」に対応している。つまり、今の自分の状態を形に表わすこと、形に表れた自分を分析すること、この二つの面のどちらもを書くことは持っているのだ。
 一つ目、「自分を書き出してみる」時は、とにかく自分を形に表わせればいいから、書く内容は何でもいい。と言うか、そこでどんな内容を選んで書くのかということもその時の自分の状態を表わす要素になる。
 二つ目、「自分について書く」時は、形になったものを分析する過程として文章を書く。文章として分析過程を書くことで分析が進むことは多いし、ある一定の結論を文章として残すことはその後の分析にも生きてくることが多い。分析の対象になるのは、書いたものでも書いていないものでも、なんでもありうる。
 また、分析の過程として書いた文章が、分析の対象になることもありうる。

③普段の自分がやらないことをやる機会に行き合ったら、やってみる
 これは、やってみることで自分がどんな反応を示すのか観察するためだ。普通に生きていれば人間の行動というのはパターン化する。そうすると、自分についての新しい情報は得にくい。そこで、普段の自分がやらないことをやる機会があったら、それをやってみる。そうすると、今までに見たことのない自分の反応が引き出せることもある。
 注意点は、これはあくまでも自己発見のための行動であって、自己超克のようなことを目指す行動ではない、ということである。だから、僕の場合は特に無理はしない。やりたくないなあと思ったらやらないことは多い。まあ、やりたくないからこそそれをやってみることが自己発見につながるのだけど……まあ、そこはその都度の自分と相談しながらですね。

④他人に自分の状態を見てもらう
 これも新たな自己発見のためだ。自分だけで自分を観察・分析していても、やはりパターン化してしまいがちだ。人にはそれぞれ、ものの見方の癖があって、一人ではどんなに頑張ってもその癖にからめとられてしまう(その癖を観察・分析するのが目的でもあるのだ)。だから、他人に自分を見てもらい、他人の反応を観察する。直接他人と会ってもいいし、文章を送ったり、絵を送ったり、自分のやっている仕事の進捗状況を知らせたり、いろいろと方法はあるだろう。他人に自分を見てもらうと、自分では喜ばしいと思っていた自分の特徴が他人にとっては汚らしいものだったり、その逆のことだったり、そういう予想外のことが起こる。また、そういう逆転的な発見だけでなく、他人と自分とではものを見る時の視点の置き所が全く違うという発見もある。例えば、映画などを見る時に自分はストーリーに注目するのが当然だと思っていたけれど、他人はカメラワークに一番に注目していたりする。そういうふうに他人を知ることで、自分の認識パターン・行動パターンを発見できる。

⑤労力をかけて何かを作る
 これは、例えば、サラリーマンなら何か大きめのプロジェクトに一定期間関わること、研究者なら論文を書くこと、芸術家なら何か芸術作品を作ること、などが考えられる。仕事ではなくても、趣味で何かを作るのでももちろんいい。とにかく、ある程度の労力(と時間)をかけて何かを作ること。もう少し言えば、「こだわって」作ること。
 労力をかけて作ったものには、その時の自分自身がめちゃくちゃ表れると思う。労力をかけないで作ったものにももちろん表れるが、やはり労力をかけた方がより表れる。これが何故なのかは要検討だが、今のところ僕は、労力をかけるとその作品に自分のこだわりを込めずにいられなくなるからだと思う。なぜこだわりを込めずにいられなくなるかと言うと、労力をかけることは自分をたくさんこき使うということであり、自分をこき使うのにその結果できた作品の中に自分がいないように感じるのはあまりにも悲しいから、である。だから、多量の労力を使う場合、人は作品に自分を込めたくなる。だからその作品にはその時の自分がよく表れるのだ。労力をかけない場合、「まあ、いいや」と思ってしまいがちだ。自分をないがしろにしても、ほんの少しだからまあいいや、と思ってしまう。
 おそらく、労力をかけても自分のこだわりを作品に込めないことも、時にはあるだろう。その場合にはたぶん、悲しみが湧いてくる。それはそれで自分を観察する要素になる。そういう意味で、自分のこだわりを込めても込めなくても、労力をかけて何かを作ることは自分を知ることの手がかりになる、と言える。



 こんな感じである。これはあくまでも僕の方法であるし、僕の方法としても最適であるかは分からない(それを模索し続けることも自分を知ることの一環だ)。適した方法は人それぞれで探していくしかないだろう(もちろんそれを他人と協力して行うことは有効である)。

 見て分かると思うが、5つの方法に分けて記してはいるけれど、これらは相互に重なり合っている。ここまで書いていて気付いたのだけれど、②で記した書くことの二つの面は、①~⑤の全てに当てはまりそうだ。それに基づいて書き直すのはまた機会にしよう(機会が来れば)。

 また、前回の記事で書いた「今この瞬間の自分の100を感じ取ろう。感じ取って、その自分が求めることだけをして生きよう」ということと、今回の記事は矛盾するようにも見える(お腹いっぱいだと感じていても、必ずしも食べないという選択をするわけではない)。そのあたりも、また今度。