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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

向かう瞬間

ある状態については、その方向へ向っている、ということが重要だ、と思う。あれかこれか、という、固定した状態を想定しない方がよい。

たとえば、
「ありのままの自分」か、「つくろった自分」か、とか。

100%「ありのまま」を実現した自分も、100%「つくろった」自分も、想定しないでおこう。
また、30%「ありのまま」の自分とか、60%「つくろった」自分とか、そういう、「あいだ」のような状態というのも想定しないでおこう。

僕が想定するのは、最初に書いたように、「その方向へ向かう」という観点での状態だ。
つまり、動的に状態を捉えるのだ。ある人のある行動について、「彼のあの行動はありのままの自分へ向かう行動だ」とか、「彼のあの行動は自分をつくろう方向へ向かう行動だ」とか。

状態を固定して見ることをしない。
「どこにいるのか」を見るのではなく、
「向かっている」ということを見る。

固定して見る見方は、点数化を招く。
「彼はいま70点」
「今の行動は100点!」
「30点から50点に上がった」
点数というのはどうでもよいものだ。

その人にはその人が今いる場所があって、人はいつも、微妙に、あるいは大きく、そこから動く。その動きが面白いのであって、今いる場所が何点で、動いたあとは何点になったとかは、どうでもよい。

……

また、この見方は物事を上手く説明してくれることが多い気がする。

「ありのままの自分」といったものを想定しようとすると、「ありのままの自分なんて存在しないよ」と言われたりするが、そこで「ありのままの自分の方へ向かっている行動というのはあるのではないか」と説明してみたりする。「例えば、今まで言うのが怖くて隠していたことを勇気を出して言ってみたとか」。「例えば、怒りを抑えきれなくなって大きな声を出したとか」。そういう「瞬間」について、「あの瞬間はありのままの自分に向かって飛び出していたのではないか」、と説明してみたり。
少なくとも、「100%ありのままの自分」とか、「少しだけありのままの自分」なんかよりは、面白いし、納得感がある、気がするのだけど。