贈与。
贈与をする側は、
「私と一緒に死ぬ気はあるか?」と問う。
究極の贈与とは、自分のすべてを与えること、つまり自分のすべてを自分の手から解き放って投げ出すことだから、それは死を意味することができる。
「私と一緒に死ぬ気はあるか?」
もちろん、そう言っている彼は死ぬ気なのである。
贈与を受け取るとは、一緒に死ぬことだ。
一緒に死ぬのだろうか?
「死ぬ気はあるか?」と言った側が生き残って、言われた側だけがその気になって死ぬ、ということは多い気がする(はい、気がするだけです)。
知らず知らずのうちに、人は自分を守りがちである。
死ぬと「言う」こと。
「言う」ということは、そのことに自覚的であるということである。自覚的であるということは、自分を自分のコントロール下に置いているということだ。そこではまだ、ブレーキを踏める。
「言われた」側はどうか。
「言われた」側は、自分が何をしているのか分かっていない。「言っていない」からだ。何をしているのか分かる(=自覚している)ということは、何をしているのか言語化するということだ。自分のことを言語化していない彼は、自分のことが分かっていない(=コントロールできない)。ブレーキを踏めない(何がブレーキなのか分かっていない)。
言った側が生き残り、言われた側が死ぬ。
そうしたら、生き残った側は、罪悪感を感じるかもしれない。私が死のうと言ったのに、私は生き残り、彼は死んだ。そこで自分に罪を感じるかもしれない。
(しかし)
贈与とは死ぬことなのだから、
死んだ彼は贈与をしたのだ。
私は贈与をしなかった。
ここで贈与にとって問題なのは、彼は死んだ「のに」私は死ななかった、ということではなく、単に私が死ななかったこと(=私が贈与しなかったこと)である。
死ぬと「言い」ながら、死ぬことはできるのか。
あるいは、死ぬ者は死ぬと「言わない」のか。少なくとも、死ぬその瞬間には死を忘れるのか。
詩(うた)として「言う」ならば、「言い」ながら死ぬことは可能な気がする。
死はただひとつのものである。
死について「(自覚的な言語化として)言う」ことは、死ぬ者と死とを分裂させる。
詩はひとつだ……