例えば、
「頑張れ」と簡単に言ってはいけない。だって人はもうすでに頑張っているんだから。
という話がある。
でも、
「頑張れ」と応援されると元気が出るよね。
という話もある。
それは当然のこと。
「頑張れ」が重荷になることもあれば、
「頑張れ」が支えになることもある。
いろんな場合がある。
この人にとって「頑張れ」は重荷になるんだろうな、と感じることもあれば、
この人にとって「頑張れ」は支えになるんだろうな、と感じることもある。
なんと声をかければいいのか分からない、ということもある。
「頑張れ」なんて言えないよ……と思うこともある。
「頑張れ」としか言えない……と思うこともある。
「頑張らなくていい」と言いたいときもあるし、
「頑張りなさい」と言おうと思う時もある。
「頑張っちゃだめだよ」と言いたくなる時もある。
どんな言葉であっても、愛があればいい、かと言うと、そうとも言い切れない。
言葉というのはひとり歩きするからだ。
文字、とか、音声、といったレベルで、言葉は独立しうる。そこに込められた思いや意味は切り離されうる。「頑張れ」という音声を聞くだけで傷をえぐられる人はいる。
どんなに愛があっても、その言葉によって人がダメージを負う可能性はある。
けど、結局、愛があればいいのだと思う。
愛がある人なら、人が傷ついている時に、悲しむだろう。
その人の悲しみは力になり、その人を形作る。
「頑張れ」という言葉で人を傷つけた人は、「頑張れ」という言葉によって人が傷ついたということに、思いを馳せるだろう。
そして、その人は少し変わるだろう。
人はいつでも有限(=複数)なので、完璧な平和などありえない。
傷つく人がいない世界などありえない。
だから、愛は、人に、いつでも、何かしらの傷に対して思いを馳せさせ続けるだろう。
そして、人を常に少しずつ変え続けるだろう。
「頑張れ」と言ったり、
「頑張らなくていい」と言ったり、
何も言わなかったり、
また、「頑張れ」と言ったり、
迷いながらだったり、
確信を持っていたり、
やっぱりまた迷ったり、
いろいろに、人は変わる。
愛が永遠なのは、
人が有限=複数だからである。
つまり、人には他者がいるからである。
もし他者がいなくなったら、
傷はなくなり、
よって、愛もなくなる。
そこに人はいない。
……
……
なんか、エヴァンゲリオンみたいな話になっちゃった。
っていうか、「頑張れ」の話はあんまり関係なくなっちゃった。