哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

権力構造、子供扱い③

「上」にいる人は、安心している。
「下」にいる人よりも権力を持っているこの人は、「下」にいる人から「捨てられる」かもしれないとか「追い出される」かもしれないとかいった不安はない。
誰かを捨てたり追い出したり(あるいは逆に拾ったり迎え入れたり)する役目は「上」の人のものであるからだ。その「権利」は「上」の人が持っている。「下」の人にはそれがない。だから、「上」の人は常に安心している。

「上」にいること、権力を持つこと、がそういうことだとしたら、「対等」であるとは、「上」にいた人が不安になること、であるかもしれない。
「上」にいた人が、「捨てられる」かもしれない、「追い出される」かもしれない、と感じるようになること。

そのように感じるようになれば、自ずとその人の行動は変わるだろう。
「捨てられる」可能性がなかったから他人に対して横暴に振る舞えていたのなら、「捨てられる」可能性を感じ始めたら、他人に対して優しくなるのかもしれない。

……

でも、それはあんまり健康な精神状態ではないようにも思う。

「見捨てられ不安」みたいな言葉はときどき耳にする。
他人から見捨てられる不安があるから他人に対して優しくしてしまう、というのは健康ではないと思う。

そうは思うけど、「上」にいるがゆえにそういう不安とは無縁で、それによって他者の不安に鈍感だったり他者を自分の道具扱いしているのなら、一度は、「見捨てられ不安」を経験することもいいのかもしれない、とも思う。それを「経由」してみること。

……

あるいは、「上」にいる人もすでに不安なのかもしれない、とも思う。
不安だからこそ「上」にいようとするのかもしれない。不安を打ち消すために、不安を見えないところに追いやるために、「上」にいようとするのかもしれない。

だとしたら、その不安を見る、ということが有効であるということになるだろう。
自分にもその不安があるのだ、「見捨てられ不安」があるのだ、という事実に気づくこと。事実を隠さずに見ること。

他者への共感というのがあるとするなら、おそらく、自分のことを知るということがそれへのひとつの道となる。
自分にどんな感覚・感情があるかを知らない人が、他人にどんな感覚・感情があるかを知ることができるだろうか。
いや、うーん、できる気もするけど、少なくとも、自分の感覚・感情を知る「勇気」がなければ、他人の感覚・感情を知る「勇気」も出ないのではないか、とは思える。

……

でも、最も重要なのは、「知りたい」という気持ちを持つと同時に、「知ることは永遠にできないかもしれない」という気持ちを持つこと、だろう。
「私には分からない何かがこの世にはある」「私には知ることのできない何かがある」と感じること。

全てを知ることができると思うのは、全てを自分の思いどおりにしたいと思うことと、表裏一体だ。それは「上」に行きたいという欲望でもある。「上」にいって、全てを自分の思いどおりにできる地位に就くことによって、「不安を消したい」という欲望。

だとしたら、他者と向き合った時に、「この人のことをすべて知るのは私には無理だ」と思うこと、それが、「対等」であることの条件なのではないか。(「自分」というものも「他者」のひとつだと思う。)

そして、もしそうなのだとしたら、「知ること」は、純粋な「楽しみ」として現れることができるのではないだろうか。純粋な「遊び」として現れることができるのではないだろうか。
いや、むしろ、純粋な「楽しみ・遊び」としてしか、「知ること」はありえない、のではないだろうか。
だって、「知ること」には常に「知ることができない」という可能性が付いてくるのだから。つまり、「知ろうとする努力」は常に報われない可能性を持っている、しかも、「努力不足」とか「時間が足りない」とか「やり方がよくない」とかいう理由によってではなく、「知ること」の「本質」として、である。「知ること」には、原理的に、「知ることができない」という可能性が含まれている。

それを頑張っても報われない可能性が原理的にそれに含まれているのなら、それを「達成」することを、それをすることの一番の動機として置くのは無理なのではないか?

だから、「知ること」の一番の動機は、「楽しむこと」「遊びとしてそれをやること」、となるのではないだろうか?