哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

幸せが生む「時間」

ときどきいろんな人から聞く話。

「いま幸せな状態でも、いつか嫌なことが起こるかもしれない」
「いま調子良くことが進んでいても、いつか上手くいかなくなる」
「いま良い気分でいるけど、いつか必ず落ち込むことになるだろう

こういうことを聞くと、なんだか不思議な気持ちになる。
どうして、「いつかの不幸」を「あえて」想像しようとするのだろう? と。
僕にはない感覚である。

逆なら分からなくもない気がする。
「今は不幸だけど、いつか幸せになれるかもしれない」
結局これも馬鹿げた妄想だとは思うが、こう思いたくなる気持ちは分かる気がする。だって、一生不幸だと思ったら生きる希望がないもんね。

あとは、単純に「不幸はいやだ」と思うのなら分かる。
だって不幸はいやだもん。苦しいのはいやだもん。単純に。

……

いまふと思った。
もしかして、僕は幸せを感じたことがないのだろうか?

なぜそう思ったか。
もしかしたら、「いつかの不幸」を想像してしまう人は、「今の幸せ」をものすごーく強く感じているのではないか。「今の幸せ」をものすごく強く感じているから、それを「失いたくない!」と思っているのではなかろうか。だから、それを失う「いつか」を想像してしまうのではなかろうか。
それに対して、もし「今の幸せ」というものを強く感じたことがないなら、それを「失いたくない」と思うこともないだろう。まだ持っていないものを失いたくないと思うことはありえない。まだ持っていないのだから、失うもなにもない。だから、失う「いつか」を想像することもない。
そうは考えられないか。
一つの仮説。

……

関係あるのか全く分からないが、デリダは「贈与のあるところに時間がある」と言っていた。

……

時間とはこういうところから生まれるものなのかもしれない。

自分にとってものすごく「よい」何かが与えられる。
→それが「よい」がゆえに、いつまでもそれを保持し続けたいと思う。
→それを失いたくないと思う。
→失う場面を想像する。
→「ここ」にある現状としては、それは保持されている。
→もし失う場面が現実化するとしたらそれは「ここではないどこか」においてであると想定される(→「ここではないどこか」が生まれる)。
→「ここ」と「ここではないどこか」が区別されるようになる。
→「ここ」と「ここではないどこか」の「間」が想定される。
→「ここ」と、「ここではないどこか」と、その「間」、これらがセットになって、「時間」となった。

みたいな。

……

二元論ってあんまり好きじゃないのよねぇ。