哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

押されて動く

 言葉は物である。人も物である。例えば、物は押せば倒れる。言葉も人もそうだ。言葉によって人が動くことがある。「醤油取って」と言えば誰かが醤油を取ってくれる。それは、「醤油取って」という言葉に人が押されたからである。「醤油取って」という言葉の「意味」を理解し、それに従うかどうかを「選択」し、自らの「意志」によって行動を起こした、のではない。ただ、押されたのである。その人が、「醤油取って」という言葉が持つ力に押されて動くくらいの状態だったから、その人は醤油を取ったのである。だから、もしその人が、その言葉が持つ力程度では動かないほどの「重さ」を持っていたら、動かないだろう。あるいは、その言葉が発される時の声の「音量が小さ」くて聞こえなかった場合には、きっと人は動かないだろう。逆に、音量が大きすぎれば、その言葉の力は相手に上手く届かず、どこか違う場所に向かって飛んでいってしまい、人が動かない、そんな場合もあるだろう。言い方や状況によって言葉の「意味が変わる」? 意味が変わる「から」人の動きも変わる? そうではない。言葉の「意味」とは、人の「動き」の中にしかないのだ。「動き」があって、その上で、「意味」が想定されるのだ。「ある」のは、「動き」と、それに伴う「力」だ。「意味」は「力」の一変種に過ぎない。