哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

他人と幸運 人間の土地

フランス人の著者はパイロットで、ある時、クランクの故障により同僚たち数人とともにある海岸へ不時着した。そこは当時フランスの植民地で、以前同じ場所に不時着した他の同僚はその土地の人たちに虐殺されていた。すでに日が暮れており、修理には夜明けを待たなければならなかった。彼らは「最後になるかもしれない徹夜を始めた」。

しかしそれは素晴らしい一夜だった。著者は言う。「ぼくは知らない、何があの一夜に、クリスマスのような趣を与えるのであったか」。彼らは蠟燭をともし、集まった。思い出を語り合い、冗談を言い合い、そして歌った。いつ現地の人々の攻撃に合うかも分からず、また、ろくに食べ物もない。そんな中で、彼らは「巧みに準備された祝祭が与えるあの晴れやかな感激と同じ気分を味わった」。

「実際のぼくらは極端な貧困のうちにあったのだ。風と砂と星々と。これはまるでトラピスト流のきびしさだ。それでいて、この薄暗い砂のテーブルかけの上で、すでに地上にてんでの思い出以外には何ものも所有しない六、七人の男たちが、目には見えない財宝を分ちあっていた。
 このときはじめて、ぼくらの邂逅は全かったのだ。長い年月、人は肩を並べて同じ道を行くけれど、てんでに持前の沈黙の中に閉じこもったり、よしまた話はしあっても、それがなんの感激もない言葉だったりする。ところがいったん危険に直面する、するとたちまち、人はおたがいにしっかりと肩を組みあう。人は発見する。おたがいに発見する。おたがいがある一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。人はなごやかに笑いながら、おたがいに顔を見あう。そのとき、人は似ている、海の広大なのに驚く解放された囚人に。」(以上、引用はすべて、サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學新潮文庫より)

……

『人間の土地』を読んでいると、リッチな生だなぁ、と思う。リッチ、贅沢、豊か……。「豊か」よりも、「リッチ」とか「贅沢」の方がしっくりくる気がする。「貴族的」と言ってもいいかもしれない。「豊か」は、僕には「田舎」の感じがしてしまう。厳密に言えば、「都会」との比較における「田舎」。「都会は確かにモノがたくさんあるかもしれないが、田舎には田舎にしかない豊かさがあるんだ」みたいな……。

彼らのリッチさは、ただただ、「ある」という感じがする。すべてがここにある。そしてすべてをやる。あらゆるものが押し寄せてきて、人々はそれを全身に浴びる。その素晴らしさをその身で感じる。あらゆるものを浴びる準備、あらゆるものを感じる準備、それが彼らにはできているかのようだ。リッチであるとは、人間の周りのものに関わること(たくさんものがあるとか、高価なものがあるとか)ではなく、人間のあり方そのもの、人間そのものに関わっている。

……

先の引用に、「共同体」という言葉が出てきた。これは、「フランス国家」とか、「パイロット仲間」とか、そういう、名前のついた共同体に留まらないものだろう。

心から人間を信頼する。
心から他人を信頼する。

楽しい。
嬉しい。
安心する。
こんなところがあったのか、と思う。
私たちは発見する。解放された囚人のように。
私たちは普段、囚人なのである。
幸運があれば、囚人は解放される。

囚人は、閉じこめられていると同時に閉じこもっているのかもしれない。
自分という牢獄、自分の心という牢獄に。

「他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。」

幸運は、誰にでも、訪れるものなのだろうか。



※追記(2021/10/15)
この記事を読んだ人が、「「豊か」は「十分」、「リッチ」は「十分以上」、という感じがある」と言っていた。