哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

レヴィナスの努力あるいは疲労における遺棄、断罪について

レヴィナスの『実存から実存者へ』で気になった箇所。レヴィナスは努力あるいは疲労・労苦について以下のように述べる。

「自分の務めの上に身を屈めて労苦する人間の本性のうちには、遺棄が、見捨てられた者の境涯がある。まったく自由になされるとしても、努力の裏にはある種の断罪がある。」(p53)

遺棄、見捨てられた者、断罪……

努力する=疲労することはある種の「孤独」であるという。

「手は、持ち上げている重みを放しはしないが、自分自身へとうち棄てられているようで、頼るものは自分しかない。自家発生の遺棄状態。それは、世界から取り残されもはやその歩みにつき従うことのできない者の孤独ではなく、言ってみれば、もはや自己に従わず、自己から切り離されて――〈自我(moi)〉が自己(soi)から脱臼を起こして――瞬間のなかで自己に重なることができないままなお永遠に瞬間に絡めとられている、そんな一存在の孤独なのだ。」(p60)

努力における遺棄とは、「自家発生の遺棄状態」、つまり、自分とその周りの世界との関連においてではなく、自分だけが問題となっている遺棄状態。自分が2つに分かれ、それが重なることができないがための孤独。自分が自分となることができないがための孤独。

これは疲労において特徴的な「くい違い」あるいは「弛緩」である。

疲労にともなう無気力はきわめて特徴的である。この状態は、ものに従事できなくなること、あたかも手が摑んでいるものを徐々に放してしまい、なお摑んでいるその瞬間に放しているように、存在が自分の執着しているものと不断にますますくい違ってゆくことである。疲労はこの弛緩の原因であるという以上に、この弛緩そのものなのだ。」(p51-52)

疲労とは、この「くい違い」=「弛緩」である。自分の執着しているものとのくい違い、執着しながらも放してしまうというこの弛緩。

レヴィナスは努力と疲労・労苦をほぼ同一視しながら次のように言う。

「努力は、疲労であり労苦だ。疲労は努力の随伴現象のようにしてそこに際立つのではない。ある意味で努力が湧き立つのは疲労からであり、そして努力は疲労の上に崩れ落ちるのだ。」(p53)

努力が湧き立つのは疲労からである、しかし、努力は疲労の上に崩れ落ちる。

さて、くい違いや弛緩は「遅延」とも言い変えられている。

疲労は自己と現在とに対する遅延を刻印している。」(p54)

自己と現在とに対する遅れ、これが疲労である。遅れているならば、追いつかなければならない。くい違っているならば、ぴったり重ね合わせなければならない。だから努力がいるのだ。「努力が湧き立つのは疲労から」というのはそういう意味だ。そして、遅れに追いつくこと、くい違っていたものをぴったり重ね合わせること、それが「瞬間」と呼ばれる。「努力とは瞬間の成就そのものなのである」(p58)。
(p53)

しかし、人間の努力には終わりがない。「努力は不可避の現在としての瞬間として格闘しており、そこに永久に関わり合っている」(p58)。

このことは先の「断罪」の意味にも通じてくる。「努力がうちに帯びている断罪の意味、努力をやむない務めへと繋ぎとめる根拠は、努力と瞬間の関係が見出されるときに明らかになる」(p55)。

レヴィナスは、魔術師が杖の一振りによってことをなすことと対比して、「人間の労働と努力はそれとは反対に、次第にできあがる業を一歩一歩たどるその仕方なのだ」(p56)と言う。

人間は、「自己と現在とに対する遅延」に追いつくという努力を一歩一歩し続けなければならない。

レヴィナスは、「行動」「行為」という用語を使って次のように言う。

「行動するとは、現在を引き受けることだ。そう言ったからといって、現在が現勢的なものだということを繰り返すことにはならない。現在とは、実存の無名のざわめきのなかでこの実存と格闘し、それと結ばれ、それを引き受ける、ひとつの主体の出現だということである。行為とはこの引き受けのことなのだ。そのために行為は本質的に従属であり隷従であるが、また一方、実存者、つまり存在するだれかの最初の表明あるいは形成でもあるのだ。なぜなら、現在における疲労の遅延が、関係の分節される距離を与えるからだ。つまり現在は、現在を担いとることによって構成されるということだ。
 努力はそれゆえ、瞬間を不可避の現在として引き受けるからこそ断罪なのである。努力はあの永遠に向かって開かれているが、その永遠から身を解き放つことの不可能性が努力なのだ。努力は瞬間をくまなく引き受け、瞬間のなかで永遠の真摯さに突き当たるから断罪なのである。」(p58-59)

現在は、人間としての自分が存在しているかぎり、不可避である。というよりむしろ、人間が存在すること、ひとつの主体が出現することが、現在を絶えず成立させているのだ。「実存の無名のざわめき」というある意味なにもない状態から、つまり実存者(≒存在者)にまだなっていない実存(≒存在)「そのもの」から、ひとつの主体が出現する、これが現在だ。「現在とは……ひとつの主体の出現」である。この「主体の出現」が、疲労において遅れていたところに追いつくという努力の瞬間である。

努力が断罪なのは、努力が永遠に終わらないからである。人間は存在しているかぎり永遠に疲れ続けなければならないからである。そして、永遠に疲れ続けなければならないのは、存在することそれ自体に人間は疲れるからである。

「疲れるとは、存在することに疲れることだ。どんな解釈も差しおいて、披露の具体的な十全性によってそうなのだ。疲労の単純さ、その単一性、その暗さにおいて、疲労は実存者によって実存することにもたらされる遅延のようなものである。そしてこの遅延が現在を構成する。実存のなかのこの距たりのおかげで、実存は一個の実存者と実存そのものとの関係となる。疲労とは、実存のなかでの一実存者の浮上なのだ。逆に言えば、自分自身に遅れている現在という、それ自体ほとんど矛盾したこの契機は、疲労以外のものではありえないだろう。疲労は現在に伴っているのではなく、疲労が現在を仕上げる。この遅延が疲労なのだ。」(p61)

人間はつねに自分自身に遅れている。つねに遺棄されている。だからつねに努力しなければならない。実存するためにはそうなのである。

だから、人間にとって休息さえも行為である。

「実存者はたとえ無活動のときでさえも、行為のうちにある、つまり現勢態でなければならない。この無活動の活動というのは逆説ではない。それは土の上に身を置くという行為そのものであり、休息である。休息が純粋な否定ではなく、維持のための緊張そのものであり、〈ここ〉の成就であるとするならば、だ。」(p62)


引用は、レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修講談社学術文庫 p51-62 より

〈ある〉(イリヤ)、恐怖

レヴィナスは、「〈ある〉がふっと触れること、それが恐怖だ」と言う。

「〈ある〉」の原語は「il y a」である。英語なら「there is」、あるいは「it is rain」とかの「it is」。つまり、非人称、「私が」とか「彼が」などと行為の主体を指定しない、「誰が」「何が」を指定しない、そういう「ある」。

ただの、単なる、〈ある〉。

だから、もちろんそこに私(自我)はない。「自我と呼ばれるものそれ自体が、夜に沈み、夜によって侵食され、人称性を失い、窒息している」。「夜」には「何」も見えなくなる。真っ暗なところでは「何か」と言えるものがなくなる。全てが融ける。名前の付けられるものがなくなる。〈ある〉だけがそこにはある。私(主体)の「前」に〈ある〉があるのではなく、私すらも〈ある〉のうちに融けるのだ。私の「意識」が融けるのだ。

だから、〈ある〉に触れることは恐怖である。「恐怖は言ってみれば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動なのである。それも、無意識の内に意識を鎮めることによってではなく、意識を非人称の〈目覚め〉のうちに、レヴィ=ブリュールの言う〈融即〉のうちに、つき落とすことによって」。

何かと何かの融即は、その何かと何かが同じ部分を持っているということではない。同じ部分を共有しているから結局は同じものだ、ということではない。融即=〈ある〉は、そのような、「存在者としての「個別性」」を維持したあり方ではない。

「融即(participation)において、主客両項の自己同一性は消滅する。両項は、それぞれの実体性そのものの根拠を脱ぎ捨てるのだ。ひとつの項と他の項との融即とは、何らかの属性を共有することではない。ひとつの項が他の項なのである」。それが〈ある〉だ。

さて、〈ある〉の恐怖は、何も「なくなって」しまう、という不安ではない。つまり、「終わり」の、全てが終わってしまうことの不安ではない、すなわち、「死の不安」ではない。

〈ある〉のうちでは、「私」や「彼」の個別性はなくなる。いわば、「私」や「彼」は死ぬ。しかし、そこには〈ある〉が残る。「何か」「誰か」と言えるものが全てなくなっても、何もないその空間とでも言うようなものが残る。「暗闇が中身であるかのように空間を満たしている。この中身は充満しているが、何もない虚無によって充満している」。

だから、〈ある〉への融即とは、存在しなくなるということではなく、どうしても存在してしまうということなのである。〈ある〉への融即とは、「まったき否定のさなかに回帰する〈ある〉、「出口なき」〈ある〉への融即である」。だから、〈ある〉は「いってみれば、死の不可能性」である。

「殺すことも死ぬことも、存在からの出口を求めること、自由や否定が作用を及ぼす場所へと赴くことである。だが恐怖とは、この否定のただなかにそれでも何ひとつ変わらなかったかのようにして回帰する〈存在する〉という出来事だ」。「「それでおしまいだ」はありえない」。「恐怖は危険から生まれるのではない」。恐怖は、「死の危険や苦痛に出会う危険があることを私たちに啓示しているのではない」。

私たちは、「存在するのが怖い」のだ。「「ああ、明日もまた生きねばならぬのか」、無限の今日に内包された明日。不死性の恐怖、実存のドラマの永続性、その重荷を永遠に引き受けねばならないという定め」。

その「存在」は、非人称の存在である。「「何か」が残存しているのではなく、現前の気配があるのだ。…略… それは空虚の密度のようなもの、沈黙のつぶやきのようなものである。何もない、けれどなにがしかの存在が力の場のようにしてある」。私が私でなくなってもそのような存在の場として存在し続けなければならない、それを私たちは「〈ある〉がふっと触れること」において気付かされる。私たちの存在の根底には非人称の〈ある〉がある。それが恐怖だ。


引用はレヴィナス『実存から実存者へ』西谷修講談社学術文庫 p118-125 より。

責任、喜び、サン・テグジュペリ

著者サン・テグジュペリは飛行機で郵便配達をする仕事をしている。ある時、ギヨメという同僚が、大きな事故でもう死んだと思われていた中、数日後に生還した。著者は彼を讃えて書く。

「彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。」

生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対する責任、人類の運命に対する責任。

「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。」

人間であるということは。
人間であるということは。

自分と他者。
自分と世界。

これらの関係はどんなだろう。

分かんないけど、他者や世界が “自分の延長として” 存在しているから他者や世界に自分が感じ入ることができる、ということではないだろう、と思う。と言うか、思いたい。思いたいわしがいる。

自分の延長ではないけど、全くの他人でもなくて、じゃあ何かというと、“他者や世界の” 延長に自分が存在する、ということなのではないか、と思う。と言うか思いたいわしがいる。

自分の延長に他者や世界があるのではなく、他者や世界の延長に自分がある。

前者では、他者や世界は自分の一部である。
後者では、自分が、他者や世界の一部である。

後者では、自分は、他者や世界の建設を手伝う、他者や世界の建設に加担する、他者や世界の建設に貢献するための道具である。

「世人はよくこの種の人間を、闘牛士や賭博者と混同したがったりする。世人は彼らが死を軽んずる点を吹聴する。だが、ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単に貧弱さの表われ、若気のいたりにしかすぎない。」

もし自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしているならば、その死は、「人間のまことの死」である。

「ぼくは人間のまことの死の一つを思い出す。それは一園丁の死であった。彼は僕に言った、〈旦那……わしにも土を掘るのが苦労だったことがござんした。リューマチで足が痛かったりすると、わしもこの奴隷仕事を呪いましたよ。ところがどうでしょう、このごろでは、わしは土を掘って掘って掘りぬきたいほどですわい。土を掘るってことがわしには、いい気持なんでさあ! 土を掘っていると、気が楽でさあ! それにわしがしなかったら、だれがわしの樹木の手入れをしてくれましょう?〉彼は自分がそれをしなかったら、一枚の畑が荒蕪地になるように思えるのだ。彼は自分が耕さなかったら、地球全部が荒蕪地になるように思えるのだ。彼は愛によって、あらゆる土地に、地上のあらゆる樹木に、つながれていた。彼こそは仁者であり、知者であり、王者であったのだ。彼こそは、ギヨメ同様、勇者であったのだ。彼が自らの創造のために、死に反抗して、戦いつづけていたあいだじゅう。」

「彼は愛によって、あらゆる土地に、地上のあらゆる樹木に、つながれていた」。彼は「つながれて」いるのであり、彼「が」つないでいるのではない。彼は、土地に、樹木に、「つながれて」いる。だから、「愛」とは、おそらく「彼の」愛ではない。「彼に」愛があるわけではない。愛は幸運にも彼のもとで発現したのだ。そして彼を土地や樹木につないだ。

彼は自分が土地や樹木を手入れしなかったら「一枚の畑が荒蕪地になるように思える」。「地球全部が荒蕪地になるように思える」。

だから彼はそれをせざるをえないのだ。
このことが「責任」である。

彼は「土を掘るってことがわしには、いい気持なんでさあ! 土を掘っていると、気が楽でさあ!」と言う。

責任とは喜びである。
だから、喜びがないなら、それは責任において為されていることではない。

責任とは、他者や世界のための道具としての自分の責任とは、「自分が喜ぶことをする」ことだ。自分が心から喜びながらことを為す、それが他者や世界に貢献することになる。自分が心から喜びながらことを為す、そこで他者や世界を感じる。「自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じる」。それが「人間であるということ」だ。自分とは、他者や世界から、「喜びながらことを為す」ことを義務として課された存在のことである。


……と思うとわしは気が楽になる。だって、自分の喜ぶことをしていいんでしょ?

他の人はどうなんだろう?

……

引用は、サン・テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫 63-65 より

ザバァーと

佐野洋子は、幼稚園の時にブランコに乗っていたら隣の男の子がブランコを横にゆらして佐野のブランコにぶつけて来た、というエピソードを話したあと、男に対してどんな注文があるか、という話を続ける。その最後のあたり。

「私やっぱり暴力というのは嫌だ。なぐられて痛いとか、恐いとかいうのではなくて、暴力によってしか表現出来ないものを持っている人の心が読めないから恐いのだ。まだこの世が混沌として天も地も分かれていなかったところからザバァーと起き上がって来るものを見るような気がするのだ。文明人はもはやそれを理解する能力を失っているから対処が出来ない。野蛮だから恐いというのではない。文明人になってしまった私は、暴力を前に理解不能になっているのが哀しくなるのだ。ブランコを横ゆらしにぶつけて来た男の子が、心の中に何故そうせずにいられなかったかということがわからなかったから、私は不気味だったのだ。
 うーん。かと言って話せば何でもわかるっていうのも本当かしらん。どうしてもことばでは伝えられないものも人には確かにあるし、なければ面白くないなあ。
 うーん。やっぱ、私、何にも注文ないわ、だって人間って本当にわけがわからないもの。私はあの幼稚園の男の子が忘れられない。謎のままだから忘れられない。」(『ふつうがえらい』)

わし、佐野洋子、好きなんだよね。

暴力って、なんだろうな。
「暴力はダメ」、とわしは思わないけど、それはなぜなんだろう。

①「〜しないでほしい」
②「〜してはいけない」

わしは、殴らないでほしい、とは思う。
でも、殴ってはいけない、とは思わない。と言うか、僕には、思うことができない。

「〜しないでほしい」は、単にその人の気持ちだ。その人がそう思っているだけのこと、だ。

「〜してはいけない」は、普遍性を帯びている。「〜してはいけない」という思いには、そう思っているそのひと個人の問題にはとどまらない何かがある。

……

僕は、人を殴ったことも、人から殴られたことも、あまりない気がする。今思い出せるのは一例だけだ。中学生の時の部活中に、真剣に練習しない同級生の頬を平手打ちした。これは殴った例。殴られた例は思いつかない。

……

僕は、暴力に直接あったことがないのだろうか。

佐野洋子は、暴力が理解不能だから恐れている。
僕は同級生を平手打ちしたことがあるが、それが自分の発する暴力だったからか、そこには理解不能な感じはあまりなかった。

他人の暴力を、僕は受けたことがない……

と、書いていて、思い出した!
友人に殴られたことがあった。
でも、それも、理解不能な感じはあまりなかった……

あるいは、理解した気になっているだけ、なのだろうか?

……

理解不能な時に、素直に、「理解できない」と思えることは、大事だと思う。

……

「まだこの世が混沌として天も地も分かれていなかったところからザバァーと起き上がって来るものを見るような気がする」

「文明人になってしまった私は、暴力を前に理解不能になっているのが哀しくなる」

混沌は、本質的に理解不能だ。
理解可能だけど、今はまだ理解できていないとか、努力が足りないから理解できていないとか、能力が足りないから理解できていないとか、ではない。
絶対に理解できない、のが混沌だ。

絶対に理解できない(と感じる)ものに出会うというのは、幸運なことのように感じる。それは豊かな経験だ。しっかりとショックのある経験だ。

不気味なもの……
ウンハイムリッヒ……

フ、フロイト……?

なんか、嬉しくなってきた。
ショック受けたい!
暴力受けたい!
……みたいな気持ち。

いや、ふつうに嫌だけど。

なんだろう、僕は、佐野洋子みたいな、理解不能だから哀しくなる、不気味だから恐い、みたいな感覚を今のところ感じていない。
むしろ、歓迎! という気持ちがある。

でも、それに出会う経験は、単純に痛みがある。痛いから嫌だ、とは思う。これも佐野洋子と反対?

なぜ痛いかというと、そういう、理解不能なもの、天と地が分かれる前のもの、そういうものにザバァーと来られると、自分が壊れるからだ。厳密に言うと、自分が壊れることに自分が抵抗するからだ。抵抗しなければおそらく痛くない。殴られてもその場に立っていたら痛い。殴られた衝撃で後ろにフッ飛べば痛みは弱まる。

でも抵抗しちゃう。抵抗しちゃうから痛い。たぶん、自分を壊したくない理由が、いろいろあるんでしょう。

……

僕が、理解不能なもの、不気味なものを恐いと思わないのは、僕がそういうものに出会ったことがないからなのだろうか、もしかしたら。
あるいは、僕にはまだ、そういうものに出会う力がないということなのだろうか。そういう準備ができていないということなのだろうか。

……

とにかく、幸運だと思う、不気味なものに出会ってしまう体験は。とりあえずそれは言いたい。

他人と幸運 人間の土地

フランス人の著者はパイロットで、ある時、クランクの故障により同僚たち数人とともにある海岸へ不時着した。そこは当時フランスの植民地で、以前同じ場所に不時着した他の同僚はその土地の人たちに虐殺されていた。すでに日が暮れており、修理には夜明けを待たなければならなかった。彼らは「最後になるかもしれない徹夜を始めた」。

しかしそれは素晴らしい一夜だった。著者は言う。「ぼくは知らない、何があの一夜に、クリスマスのような趣を与えるのであったか」。彼らは蠟燭をともし、集まった。思い出を語り合い、冗談を言い合い、そして歌った。いつ現地の人々の攻撃に合うかも分からず、また、ろくに食べ物もない。そんな中で、彼らは「巧みに準備された祝祭が与えるあの晴れやかな感激と同じ気分を味わった」。

「実際のぼくらは極端な貧困のうちにあったのだ。風と砂と星々と。これはまるでトラピスト流のきびしさだ。それでいて、この薄暗い砂のテーブルかけの上で、すでに地上にてんでの思い出以外には何ものも所有しない六、七人の男たちが、目には見えない財宝を分ちあっていた。
 このときはじめて、ぼくらの邂逅は全かったのだ。長い年月、人は肩を並べて同じ道を行くけれど、てんでに持前の沈黙の中に閉じこもったり、よしまた話はしあっても、それがなんの感激もない言葉だったりする。ところがいったん危険に直面する、するとたちまち、人はおたがいにしっかりと肩を組みあう。人は発見する。おたがいに発見する。おたがいがある一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。人はなごやかに笑いながら、おたがいに顔を見あう。そのとき、人は似ている、海の広大なのに驚く解放された囚人に。」(以上、引用はすべて、サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學新潮文庫より)

……

『人間の土地』を読んでいると、リッチな生だなぁ、と思う。リッチ、贅沢、豊か……。「豊か」よりも、「リッチ」とか「贅沢」の方がしっくりくる気がする。「貴族的」と言ってもいいかもしれない。「豊か」は、僕には「田舎」の感じがしてしまう。厳密に言えば、「都会」との比較における「田舎」。「都会は確かにモノがたくさんあるかもしれないが、田舎には田舎にしかない豊かさがあるんだ」みたいな……。

彼らのリッチさは、ただただ、「ある」という感じがする。すべてがここにある。そしてすべてをやる。あらゆるものが押し寄せてきて、人々はそれを全身に浴びる。その素晴らしさをその身で感じる。あらゆるものを浴びる準備、あらゆるものを感じる準備、それが彼らにはできているかのようだ。リッチであるとは、人間の周りのものに関わること(たくさんものがあるとか、高価なものがあるとか)ではなく、人間のあり方そのもの、人間そのものに関わっている。

……

先の引用に、「共同体」という言葉が出てきた。これは、「フランス国家」とか、「パイロット仲間」とか、そういう、名前のついた共同体に留まらないものだろう。

心から人間を信頼する。
心から他人を信頼する。

楽しい。
嬉しい。
安心する。
こんなところがあったのか、と思う。
私たちは発見する。解放された囚人のように。
私たちは普段、囚人なのである。
幸運があれば、囚人は解放される。

囚人は、閉じこめられていると同時に閉じこもっているのかもしれない。
自分という牢獄、自分の心という牢獄に。

「他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。」

幸運は、誰にでも、訪れるものなのだろうか。



※追記(2021/10/15)
この記事を読んだ人が、「「豊か」は「十分」、「リッチ」は「十分以上」、という感じがある」と言っていた。

権力構造、子供扱い③

「上」にいる人は、安心している。
「下」にいる人よりも権力を持っているこの人は、「下」にいる人から「捨てられる」かもしれないとか「追い出される」かもしれないとかいった不安はない。
誰かを捨てたり追い出したり(あるいは逆に拾ったり迎え入れたり)する役目は「上」の人のものであるからだ。その「権利」は「上」の人が持っている。「下」の人にはそれがない。だから、「上」の人は常に安心している。

「上」にいること、権力を持つこと、がそういうことだとしたら、「対等」であるとは、「上」にいた人が不安になること、であるかもしれない。
「上」にいた人が、「捨てられる」かもしれない、「追い出される」かもしれない、と感じるようになること。

そのように感じるようになれば、自ずとその人の行動は変わるだろう。
「捨てられる」可能性がなかったから他人に対して横暴に振る舞えていたのなら、「捨てられる」可能性を感じ始めたら、他人に対して優しくなるのかもしれない。

……

でも、それはあんまり健康な精神状態ではないようにも思う。

「見捨てられ不安」みたいな言葉はときどき耳にする。
他人から見捨てられる不安があるから他人に対して優しくしてしまう、というのは健康ではないと思う。

そうは思うけど、「上」にいるがゆえにそういう不安とは無縁で、それによって他者の不安に鈍感だったり他者を自分の道具扱いしているのなら、一度は、「見捨てられ不安」を経験することもいいのかもしれない、とも思う。それを「経由」してみること。

……

あるいは、「上」にいる人もすでに不安なのかもしれない、とも思う。
不安だからこそ「上」にいようとするのかもしれない。不安を打ち消すために、不安を見えないところに追いやるために、「上」にいようとするのかもしれない。

だとしたら、その不安を見る、ということが有効であるということになるだろう。
自分にもその不安があるのだ、「見捨てられ不安」があるのだ、という事実に気づくこと。事実を隠さずに見ること。

他者への共感というのがあるとするなら、おそらく、自分のことを知るということがそれへのひとつの道となる。
自分にどんな感覚・感情があるかを知らない人が、他人にどんな感覚・感情があるかを知ることができるだろうか。
いや、うーん、できる気もするけど、少なくとも、自分の感覚・感情を知る「勇気」がなければ、他人の感覚・感情を知る「勇気」も出ないのではないか、とは思える。

……

でも、最も重要なのは、「知りたい」という気持ちを持つと同時に、「知ることは永遠にできないかもしれない」という気持ちを持つこと、だろう。
「私には分からない何かがこの世にはある」「私には知ることのできない何かがある」と感じること。

全てを知ることができると思うのは、全てを自分の思いどおりにしたいと思うことと、表裏一体だ。それは「上」に行きたいという欲望でもある。「上」にいって、全てを自分の思いどおりにできる地位に就くことによって、「不安を消したい」という欲望。

だとしたら、他者と向き合った時に、「この人のことをすべて知るのは私には無理だ」と思うこと、それが、「対等」であることの条件なのではないか。(「自分」というものも「他者」のひとつだと思う。)

そして、もしそうなのだとしたら、「知ること」は、純粋な「楽しみ」として現れることができるのではないだろうか。純粋な「遊び」として現れることができるのではないだろうか。
いや、むしろ、純粋な「楽しみ・遊び」としてしか、「知ること」はありえない、のではないだろうか。
だって、「知ること」には常に「知ることができない」という可能性が付いてくるのだから。つまり、「知ろうとする努力」は常に報われない可能性を持っている、しかも、「努力不足」とか「時間が足りない」とか「やり方がよくない」とかいう理由によってではなく、「知ること」の「本質」として、である。「知ること」には、原理的に、「知ることができない」という可能性が含まれている。

それを頑張っても報われない可能性が原理的にそれに含まれているのなら、それを「達成」することを、それをすることの一番の動機として置くのは無理なのではないか?

だから、「知ること」の一番の動機は、「楽しむこと」「遊びとしてそれをやること」、となるのではないだろうか?

『論理哲学論考』を読みながら思ったことを書く

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだ。読み返してみる。

僕がまず躓いた箇所はここだ。

「1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。」

「論理空間」ってなんやねん。

自分にとって難しい哲学の本を読む時に大事なのは、分からない部分は分からない部分として置いておくことである。自分の小さな頭で勝手に解釈して分かった気になってはいけない。

というわけで、「論理空間」、保留。

次にちょっと引っかかったのはこれ。

「1.21 他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。」

例えばここで、「え、○○をしないと✕✕が起こらない、みたいなことってあるじゃん! 例えば、力を加えないと物は動かない、とか。ウィトゲンシュタイン、馬鹿じゃーん」などと思ってはいけない。

ウィトゲンシュタインと僕たちとでは、世界の捉え方、事象の捉え方が違うかもしれない。もしかしたらウィトゲンシュタインは、「力を加える」ことと「物が動く」ことを、異なる2つの事象とは捉えず、それだけで1つの事象と捉えるのかもしれない。あるいは、力を加えなくても物が動くことがある、とウィトゲンシュタインは考えているのかもしれない。因果関係といったものを無視する世界観をウィトゲンシュタインは生きているのかもしれない。
実際どうなのかは、今のところ、分からない。

まあとにかく、自分が考えたこともない世界観をこの人は提示しているのかもしれない、と思っておくことだ。

そして、また僕が躓いた箇所。

「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れうるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」

「論理」ってなに。
さっき「論理空間」で躓いたので、それと関連するであろう「論理」という語には警戒するのが当然だ。
しかも、「論理」と言ってるけど、大学の論理学の授業で習った、「AならばB、BならばC、したがってAならばC」みたいな、命題を導いていく規則の話とは違うっぽい……。なんか、命題とかっていうより、「現実」の「もの」の話っぽい……。「もの」に「論理」があるの??

みたいな。

「論理」という語についての僕のもともとのイメージが狭かったりするのかもしれない。

とりあえず、保留。

……

読み返してみて今思ったけど、こうやってブログとかに書いておきたくなるのは、分かりそうだけど分からないなぁ、みたいなこと。分かることや、全然分からないことは書く気にならない。

……

「対象」っていうのが出てくる。
論理哲学論考』に出てくる「対象」って、いまいちよく分かんないんだよね。
古田徹也が角川選書で出してる解説書でも言われてたけど、「対象」ってなに? 何のことを「対象」って呼んでるの? って思えてくる。

けど、「それ、何のことを言ってるの?」っていう疑問は、哲学の本を読む上ではあんまり有効ではないと、僕は思っている。
「それ、「何のこと」を言ってるの?」っていう疑問は、その本が言っている事柄を、自分がそれまでに捉えていた世界の中にあるもの、自分の世界の中にあるものに当てはめようとする志向を持っている。「「何のこと」を言ってるの?」→「ああ、「これのこと」を言ってたのか」。例えば、「「何のこと」を言ってるの?」→「ああ、「犬」のことを言ってたのか」。この場合、その本を読む前から、彼は「犬」のことを知っていた。彼の捉えた世界の中には「犬」があらかじめ存在していた。彼の世界の中にあらかじめ存在していた「犬」を、本の中で言われていたあるものに当てはめたのである。したがって、ここでは彼の世界の中に新しく存在し始めたものはない。彼が新しく知ったものはない。

哲学の本は、この世界の中になかった、自分の世界の中になかった、でもなんとなくありそうな感じを抱かずにはいられないもの、をなんとか描き出そうとする。
つまり、新しいもの(でもおそらくどこか懐かしいもの……)。

「これって何のことを言ってるの?」と思ったら、立ち止まって、「これは、僕の世界の中にはないものなのかもしれない」と思ってみる。
思って、読み進める。
哲学の本はそうやって読む。

さて。

「2.11 像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立・不成立を表す。」

また「論理空間」出てきた……。

とりあえず今日は終わり。
続きは書くかもしれないし書かないかもしれない。