千葉雅也の記事。
https://realsound.jp/movie/2021/06/post-783043.html
前に書いた権力構造の話とちょっと関連して。
千葉雅也が性的マイノリティだからこういうことを「言ってもかろうじて大丈夫」って感じはある。マジョリティとみなされる人がこの記事の千葉と同じこと言うのはちょっとハードル高いと感じる。その感じがあるのがまさに、宮台的なもの・ニーチェ主義的なものを受け付けなくなった今の社会というものを僕が感じているからだろう。
……
ニーチェは弱者を激烈に批判するけど、千葉(そしておそらく宮台)には弱者に対する愛みたいなものがある、という違いがある。そういう違いがあるということは、ニーチェと千葉とでは弱者の捉え方が違うということ。おそらく、ニーチェは弱者を「ルサンチマンに支配されている」者、と「自分で新たに定義」するけど、千葉は、「すでに社会の中で弱者とみなされている人」たちを弱者と呼んでいる。ニーチェは、弱者とは「こういう」人だ、と言う。つまり、人の「性質」に目が向いている。千葉は最初から弱者とみなされている「人」たちのことを見ている。
千葉は弱者とみなされている「人」のことを言っているから、「複雑性」があると言える(赤いりんごを指して「りんごには青いりんごもあるんだよ」と言えるように)けど、ニーチェはそもそも「人」のことは言っていなくて「弱者性」「弱さ」のことだけを言っている(「りんご」について言っているのではなくて「赤さ」について言っている。だから、「青いりんごもある」という話はニーチェの話の枠外にある)。
千葉は「人」(という様々な性質を持つ複雑な「存在者」)のことを言っているから愛のある語りになる。
ニーチェは「人」ではなくて「弱者性」というひとつの「性質」について言っているから激烈な批判ができる。
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「人」ならば、愛するしかないだろう。
「性質」には好き嫌いがあっても、「人」のことは、愛するしかない、と思う。
ニーチェはどう言っているのかな。
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「人」にばかり注目を向けてしまうと、人を排除するだとか、逆に、人に寛容になるだとかいうことが問題になる。あるいは、引き受けるとか、耐えるとか、その勇気だとか。
そんなに、生きることは重いものなのだろうか。
僕は、人が生きる、のではないと思う。
生きるということの表れとして人がいる、のではないだろうか。
人がいて、それが生きる、のではなくて、
生きることがあって、その中に人がある、のではないか。
「人が」と、「まずはじめに」に思うのは、重い。
あるいは、「自分が」とまずはじめに思うのは。
もっと謙虚になりたいと、僕は思うのだ。あるいは小さくなりたいと。それは卑屈になろうとすることではない。
自分のために生きるのではなく、生きるために自分があるのだ。だから、主役は生きることであって自分ではない。自分とは手段なのだ。生きるための手段なのだ。だから自分は小さくていい。
……
……
権力の話と関係なくなっちゃった??
いや、関係あるとは思うんだけど……
どう関係してるのかな……