哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

『ロックとは』

『ロックとは』

人通りの多い場所(駅前の広場とか)で待ち合わせている
Bがギターケースを抱いて寝転がっている
Aが来る

A「何してんの」
B「んー?」
A「寝転がってますけど」
B「うーん」
A「わりと邪魔になってる気がしますけど」
B「あれだよ」
A「あれとは」
B「あれ、ロック。ロックだよ」
A「ロックとは」
B「ロックとは道の真ん中で寝転がることと見つけたり」
A「見つけたのかい」
B「見つけた」
A「うーん。でも普通に通行の邪魔だよ」
B「そうやって排斥されてしまうんだね、ロック。歴史もそう物語ってるね」
A「なんか普通にうざいね」
B「……」
C「うぃーす。え、何やってんのお前! いやいやいやヤバいって、えーー!?」
A「ロックなんだって」
C「は?」
A「見つけたんだって、ここに寝るのがロックだって」
C「いや普通に楽器演奏しろよ」
A「(Bに向けて)だって」
B「もうやだ」
C「なに?」
B「んあ!!」
C「何こいつ」
B「あーーーー」
C「なんかよく分かんないけど早く練習行くぞ」
B「あーあ、これだからいい子ちゃんは。練習練習、練習練習、あーあ」
C「は? 練習しないと上手くなんないだろ」
B「上手くなってどうすんの? ロックは魂でしょ」
C「アホか、演奏上手いのが前提だろ」
B「あー、極度に社会化された人間の末路がこれか」
C「(Aに向けて)え、社会化ってなに?」
A「うーん、よく分かんないけど、社会に馴染んじゃった、みたいなことじゃない」
C「馴染んでいいだろ。馴染まないと駄目だろ」
B「うわー、ヤバいわこいつ、ほんとにロックやってんのかよ」
C「……(Aに向けて)練習行こうぜ」
A「うーん」
C「時間もったいないわ」
A「うーん、そうだね」

C、練習場へ歩き出す(舞台からはける)

A「お前のギター好きだよ、オレ」
B「……へー」
A「アイツも好きだと思うよ、お前のギター」
B「知ってる」
A「なんかあったの?」
B「べつに」
A「ふーん」
B「練習行けば?」
C「(声だけ)おーい、早く来いよー! オレ金ないから受付できないんだよー!」
A「……オレも金ない。悪いな、いつも金払わせて」
B「べつに」
A「仕事どう?」
B「べつに」
A「そう」
B「うん」
A「……練習行こう」
B「……んん」

終わり

『落とし物』

『落とし物』

母、父がリビングにいる
母はソワソワしている
父は新聞を読んでいる
子が学校から帰ってきてリビングに入る

子「ただいまー」
母「おかえり。ねえ[子]電話に出ないからさ。【子、「え」と言ってカバンから携帯を出して確認する】あの、電話きたよ、部室の鍵が戻ってなくて、電話、部室の鍵を間違って持って帰っちゃってませんかー、って、田巻先生から【子、カバンの中に鍵がないか探し始める】。あのー、なんだっけ、あの、あっちの方にある、学校、あ、予奥高校! で、部室の鍵が盗まれたのあったじゃん、なんか、覗き? っていうか、忍びこんだんだっけ、夜に。捕まったけど。それで先生たちも神経質になってるのかなー、って思うけど。もー、[子]に電話しても出ないんだもん」
子「自転車乗ってたから気付かないよ」
母「ああそう。でも、今までも何度かあったんだよね? また岩瀬くん(さん)なんじゃないの?って思っちゃった、アタシ。岩瀬くん(さん)がいつも間違って持って帰っちゃうんでしょ?[子]が電話に出ないからさ、アタシ、でもやっぱり、心配じゃない?」
子「鍵ないよ」
母「え? ああ、鍵は見つかったんだって」
子「え?」
母「少したってからまた電話きてね、田巻先生から。見つかりましたー、って。鐙くん(さん)が持って帰ってたんだって」
子「いや、それ早く言ってよ、無駄に探しちゃったじゃん」
母「ああごめん。あんたの部活、抜けてる人多いよねえ。天然? [子]は天然じゃないよねえ」
子「ねえ、いつも言ってるけどさ、大事なことを先に言って。こっちが無駄なことしちゃうから」
母「ごめん。あれ、でもまだ捕まってないんだっけ、不審者」
子「ねえちゃんと聞いてる? 大事なことは先に言ってって言ってるんだけど、私は」
母「ああうん。気を付けるよ今度から。あれ、捕まってないんだっけ? なんか捕まってなかった気がする。いや、でも[子]電話に出ないのちょっとアタシ焦ったからね、出てよー」
子「いや、出れないよ、気づかないって、自転車漕いでるしカバンにスマホ入ってるんだから。電話に出ないあんたが悪い、みたいな言い方やめてよマジで」
母「えー、そんな言い方してないんじゃん」
子「してるよ!」
母「えー、そう? お父さん」
父「ん、分かんないなあ」
母「分かんないって」
子「はあ、もういいよ」
母「なんか機嫌悪いね、[子]。ねえお父さん」
父「うーん」
母「まあいいや、ご飯にしよ」
子「はあ」
母「いいじゃないねえ、鐙くん(さん)が持ってたんだから。ねえお父さん」
父「鐙くん(さん)が持って帰ったんじゃなかったよ」
母「え?」
父「鐙くん(さん)が見つけた、って言ってたよ。持ってた、じゃなくて」
母「え、お父さん、田巻先生の声聞こえてたの? 耳すごくいいね」
子「いや、え、鐙がどこかで拾ったとかそういうこと?」
父「うん」
子「え、じゃあ、え」
母「あ、お米、おじいちゃんのところから今日送られてきたんだよ!」
子「ねえ! その、不審者って捕まったんだっけ、結局」
母「えー、どうだったかなぁ、分かんない」
子「なんか心配になってきた」
母「捕まったんだっけ? お父さん」
父「捕まったみたいだよ」
子「は?」
父「昨日の新聞の記事にあったよ」
子「捕まったって?」
母「あら、良かった〜」
子「早く言えよ!!」
母「ねえお米、新米だって、お父さん」
父「そうか」

終わり

権力構造、子供扱い④

千葉雅也の記事。

https://realsound.jp/movie/2021/06/post-783043.html

前に書いた権力構造の話とちょっと関連して。

千葉雅也が性的マイノリティだからこういうことを「言ってもかろうじて大丈夫」って感じはある。マジョリティとみなされる人がこの記事の千葉と同じこと言うのはちょっとハードル高いと感じる。その感じがあるのがまさに、宮台的なもの・ニーチェ主義的なものを受け付けなくなった今の社会というものを僕が感じているからだろう。

……

ニーチェは弱者を激烈に批判するけど、千葉(そしておそらく宮台)には弱者に対する愛みたいなものがある、という違いがある。そういう違いがあるということは、ニーチェと千葉とでは弱者の捉え方が違うということ。おそらく、ニーチェは弱者を「ルサンチマンに支配されている」者、と「自分で新たに定義」するけど、千葉は、「すでに社会の中で弱者とみなされている人」たちを弱者と呼んでいる。ニーチェは、弱者とは「こういう」人だ、と言う。つまり、人の「性質」に目が向いている。千葉は最初から弱者とみなされている「人」たちのことを見ている。

千葉は弱者とみなされている「人」のことを言っているから、「複雑性」があると言える(赤いりんごを指して「りんごには青いりんごもあるんだよ」と言えるように)けど、ニーチェはそもそも「人」のことは言っていなくて「弱者性」「弱さ」のことだけを言っている(「りんご」について言っているのではなくて「赤さ」について言っている。だから、「青いりんごもある」という話はニーチェの話の枠外にある)。

千葉は「人」(という様々な性質を持つ複雑な「存在者」)のことを言っているから愛のある語りになる。
ニーチェは「人」ではなくて「弱者性」というひとつの「性質」について言っているから激烈な批判ができる。

……

「人」ならば、愛するしかないだろう。
「性質」には好き嫌いがあっても、「人」のことは、愛するしかない、と思う。

ニーチェはどう言っているのかな。

……

「人」にばかり注目を向けてしまうと、人を排除するだとか、逆に、人に寛容になるだとかいうことが問題になる。あるいは、引き受けるとか、耐えるとか、その勇気だとか。

そんなに、生きることは重いものなのだろうか。

僕は、人が生きる、のではないと思う。
生きるということの表れとして人がいる、のではないだろうか。

人がいて、それが生きる、のではなくて、
生きることがあって、その中に人がある、のではないか。

「人が」と、「まずはじめに」に思うのは、重い。
あるいは、「自分が」とまずはじめに思うのは。

もっと謙虚になりたいと、僕は思うのだ。あるいは小さくなりたいと。それは卑屈になろうとすることではない。

自分のために生きるのではなく、生きるために自分があるのだ。だから、主役は生きることであって自分ではない。自分とは手段なのだ。生きるための手段なのだ。だから自分は小さくていい。

……
……

権力の話と関係なくなっちゃった??
いや、関係あるとは思うんだけど……
どう関係してるのかな……

ただ生命

サン・テグジュペリは郵便配達のパイロットだ。危険な仕事である。この日、彼は同僚と二人、不慮の事故によって砂漠の真ん中に降り立った。ここがどこなのか分からない。水も食料もほとんどない。彼らが生きているうちに仲間が助けに来る可能性はほぼない。そんな中で希望を(捨てそうになりながらも)捨てずに数日間を過ごした。

この時代のこの職業は今よりもはるかに死が身近だ。彼らはこのような事故を覚悟してこの仕事をしている。「ぼくの職業の当然の秩序だ」と彼は言う。

しかし彼は幸福である。砂漠の真ん中で、極限の渇きの中で、彼は「ぼくは、自分の職業の中で幸福だ」「ぼくには、何の後悔もない」と思う。

何が彼にそう思わせるのか。彼はスリルを愛しているのだろうか。あえて危険なところに身を投じること、あるいはそこでその危険を乗り越えること、それに興奮や快楽を覚えているのだろうか。それとも、死という甘いロマンティシズムの誘惑に囚われているのだろうか。

そうではない。彼は爽やかな海の風を胸いっぱいに吸った経験をあげて言う。

「一度あの風を味わったものは、この糧の味を忘れない。そうではないか、ぼくの僚友諸君? 問題はけっして危険な生き方をすることにあるのではない。この公式は小生意気だ。闘牛士はぼくの気に入らない。危険ではないのだ、ぼくが愛しているものは。ぼくは知っている、自分が何を愛しているか。それは生命だ。」

死と隣合わせであるこの職業に就いていながら、彼が愛するのは生命である。危険と死への欲望は斥けられる。

この本の中では、「生命」に「いのち」とふりがながふられている箇所もある。生命、いのち、生きるということ。

結局はどんな職業でもよいのである。「飛行機は、目的でなく、手段にしかすぎない。人が生命をかけるのは飛行機のためではない。農夫が耕すのは、けっして彼の鋤のためではないと同じように」。

生命は彼にとって、飛行機の中で彼が日々触れている自然物たちが象徴している。「人は風に、星々に、夜に、砂に、海に接する」。自然物たちに囲まれた人間たちはそこで、人間の働きをする。「人は自然の力に対して、策をめぐらす。人は夜明けを待つ、園丁が春を待つように。人は空港を待つ。約束の楽土のように」。そしてそこには自分がいる。「そして人は、自分の本然の姿を、星々のあいだにさがす」。

「ぼくは、自分を、空港を耕す農夫だと思っている」と彼は言う。彼はただ耕す。耕すということがそれだけで彼の喜びである。耕すことで、彼は生命を、あらゆる生命を自らのうちに感じるのである。




引用は全て、サン・テグジュペリ 『人間の土地』堀口大學新潮文庫 p213-215 からのものである。

優しさっていらなくない? って思ってしまうのだが

優しさって何なん、って思う。

わしは、優しさを重要視する人になんとなく不信感を抱いてしまう。

「優しさって要るかな??」と、思う。


優しさは、あったらあったで良いものだけど、なかったらなかったで特に問題ない。わしはそういう感覚でいる。

宝石みたいなものだ。宝石は持ってたら持ってたで綺麗で目に心地よくて素晴らしいとは思うけど、「宝石を持ったほうがいいよ」と人に勧めるようなものではない。というか、この世に宝石が存在しなくても特に誰が困るというわけではない。
宝石は持ちたい人が自由に勝手に持てばいい。それと同じで、優しさも、優しくありたい人や、すでに優しい性格の人が、自由に勝手に優しくあればいい。
わしはそんなふうな感覚でいる。

優しさは、
優しくありたいから優しくある→優しいのが「趣味」
もしくは、
自然と優しい振る舞いをする→すでに優しい「性格」
のどちらかとして存在すれば十分である。
優しくあろうとする必要はないし、また、優しくあることを人に勧めたりするのは基本的にはおかしなことだ。
わしはそんな感覚でいる。

……

検索したら7つの意味が出てきた。

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とりあえず現代の意味は1〜4の意味であるようだ。

1は外面的な「見える」優しさ。
2は振る舞いの優しさ。
3は性格の優しさ。
4は消極的定義(「〜ない」という形の定義)。

……

僕の中では、優しさはやっぱり、「贅沢品」という感じがある。宝石と同じ。

「余分なもの」という感じ。
余分だから無いほうがいい、という意味での余分ではなくて、普段は食べない高めのスイーツをたまに自分へのご褒美で買いたい、みたいな、なかったらなかったで問題ないけどあったら嬉しい気持ちになる、みたいな、そういう意味での余分。

優しさは、優しさを受けた人を幸せにするものだ、人を心地よくするものだ。そのはずだ。

だから、半端な気持ちで優しくあろうとしない方がいいと思う。

小さな子供が砂場遊びに夢中になる時のように、優しくあることが純粋に快くて優しくあってしまうとか、
優しくあろうとしなくても優しくあってしまうという、すでに優しい性格であるとか、
そういうことならばいいと思う。
つまり、その人が一人で勝手に自由に他人の評価とか関係なく優しくあるならば。
そうでないなら、やめたほうがいいと思う。

優しい人のほうが価値が高いから、とか、
優しい人のほうが得をするから、とか、
人には優しくしなければならないから、とか、
人に優しくしている自分が好きだから、とか、
人に優しくしないと人から優しくされないから、とか、
人に優しくしないと人から攻撃されるから、とか、
人に優しくしないと自分の価値が下がる気がするから、とか、
優しくあったほうが世界が良くなるから、とか、
もっと優しい世界であるべきだから、とか、

そういう気持ちで優しくしようとしてほしくない。
それは、むしろ、害悪である。
なぜなら、このように自分を強いて優しくなろうとすることは、優しさを受ける人に、優しさを受けることを強いるからである。「私の優しさを受け取って?」、 そういう優しさは人を幸せにしない。そういう優しさは単に不快なオシゴトを増やすだけだ。それで世界は良くならない。

……と、僕は思ってしまうのですが、どうなんだろ。

……

最近気づいたことがある。

僕は、「優しさはいらない」と思っているけど、世の中には「世界がもっと優しくあったらいいな」と思っている人もいる。そういう人と僕の考え方・感じ方の違いは、優しさが必要か不必要かということ以上に、優しさというものの捉え方にあるようなのだ。

優しさが必要だ、と思う人は、「もっと」優しさが必要だ、と思っているようなのだ。
……いや、もちろん、なんのデータもなくて、僕が今までに見聞きしてきたものの印象に過ぎないんだけど、、、
森達也の本で『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』という本があったりする。森達也は嫌いじゃないし一時期何冊も本を読んでたけど、どこかでちょっと合わない感じがある。映画の方が好き。森達也以外の人や物が出てくるから。)
……僕の印象では、優しさを重要視する人は、「もっと」という言葉を使う気がする。

つまり、
今は優しさが少ししかない、でももっと多くなることができるはずだ、
そういう感じ……
「度合い」「量」「寡多」
こういうカテゴリーに優しさを当てはめている。

対して僕は、「もっと」と思わない。僕は、「ある」か「ない」かのどちらかでしか優しさを考えていないようなのだ。だから、「少ない」とか「多い」とかもない。「ある」か「ない」かどちらか。

今のところ全然分かんないんだけど、この違いは重要な気がする。

……

あ、純粋に快いか、そもそもそういう性格か、の他に、もう一個、優しくあってもいいと思う場合見つけた!

優しくすることによってお金をもらう場合。
つまり、「職」「仕事」としてする場合。

お金をもらえるということは、それがちゃんとした優しさってことになるから。心地よくて人を幸せにする優しさってことになるから。だってそうじゃなければ誰もお金払わないんだから。

『ファン』

『ファン』

アイドルの握手会
この日最後のファンが来る

アイドル「またね〜、こんにちは〜(手を差し出す)」
ファン「(手を出さず)……」
アイド「握手しないんですか〜?」
ファン「……」
アイド「学生さんですか〜?」
ファン「……」
アイド「どうしたの〜?」
ファン「……」
アイド「緊張しちゃった?」
ファン「私はあなたのファンではありません」
アイド「え〜、じゃあ誰推しなの〜?」
ファン「推しとかありません」
アイド「あ、そうなんだ? 推しとか決めないタイプ?」
ファン「対等なので」
アイド「え?」
ファン「対等……友達なので」
アイド「友達? あー、私、よくファンの人と友達っぽい感じになるんだよね〜」
ファン「友達っぽい、じゃなくて、友達です」
アイド「あ、うんうん、よろしくね〜」
ファン「……」
アイド「あ、じゃあ、やっぱり、私のことが気になって来てくれたってこと?」
ファン「気になって、っていうか、友達なので、まあ、たまに会うのが普通じゃないですか?」
アイド「あはは、そうだよね〜」
ファン「なんでそんなにヘラヘラしてるんですか?」
アイド「ヘラヘラ? 私いつもこんな感じなんだ〜」
ファン「友達とはもっと普通に話すものじゃないですか?」
アイド「友達ともこんな感じだよ〜」
ファン「……」
アイド「え、どうしたの?」
ファン「(泣き出す)」
アイド「え、え、え、なんで、え、大丈夫ですか?」
ファン「(泣いている)」
はがし「お時間でーす(はがす)」
アイド「あ、お大事にね〜」

アイド「キンモ」

終わり

『落とし物』

『落とし物』

母、父がリビングにいる
母はソワソワしている
父は新聞を読んでいる
子(性別問わない)が学校から帰ってきてリビングに入る

子「ただいまー」
母「おかえり。ねえ[子]電話に出ないからさ。【子、「え」と言ってカバンから携帯を出して確認する】あの、電話きたよ、部室の鍵が戻ってなくて、電話、部室の鍵を間違って持って帰っちゃってませんかー、って、✕✕先生から【子、カバンの中に鍵がないか探し始める】。あのー、なんだっけ、あの、あっちの方にある、学校、あ、□□高校! で、部室の鍵が盗まれたのあったじゃん、なんか、覗き? っていうか、忍びこんだんだっけ、夜に。捕まったけど。それで先生たちも神経質になってるのかなー、って思うけど。もー、[子]に電話しても出ないんだもん」
子「自転車乗ってたから気付かないよ」
母「ああそう。でも、今までも何度かあったんだよね? また☆☆くん(さん)なんじゃないの?って思っちゃった、アタシ。☆☆くん(さん)がいつも間違って持って帰っちゃうんでしょ?[子]が電話に出ないからさ、アタシ、でもやっぱり、心配じゃない?」
子「鍵ないよ」
母「え? ああ、鍵は見つかったんだって」
子「え?」
母「少したってからまた電話きてね、✕✕先生から。見つかりましたー、って。△△くん(さん)が持って帰ってたんだって」
子「いや、それ早く言ってよ、無駄に探しちゃったじゃん」
母「ああごめん。あんたの部活、抜けてる人多いよねえ。天然? [子]は天然じゃないよねえ」
子「ねえ、いつも言ってるけどさ、大事なことを先に言って。こっちが無駄なことしちゃうから」
母「ごめん。あれ、でもまだ捕まってないんだっけ、不審者」
子「ねえちゃんと聞いてる? 大事なことは先に言ってって言ってるんだけど、私(俺)は」
母「ああうん。気を付けるよ今度から。あれ、捕まってなんだっけ? なんか捕まってなかった気がする。いや、でも[子]電話に出ないのちょっとアタシ焦ったからね、出てよー」
子「いや、出れないよ、気づかないって、自転車漕いでるしカバンにスマホ入ってるんだから。電話に出ないあんたが悪い、みたいな言い方やめてよマジで」
母「えー、そんな言い方してないんじゃん」
子「してるよ!」
母「えー、そう? お父さん」
父「ん、分かんないなあ」
母「分かんないって」
子「はあ、もういいよ」
母「なんか機嫌悪いね、[子]。ねえお父さん」
父「うーん」
母「まあいいや、ご飯にしよ」
子「はあ」
母「いいじゃないねえ、△△くん(さん)が持ってたんだから。ねえお父さん」
父「△△くん(さん)が持って帰ったんじゃなかったよ」
母「え?」
父「△△くん(さん)が見つけた、って言ってたよ。持ってた、じゃなくて」
母「え、お父さん、✕✕先生の声聞こえてたの? 耳すごくいいね」
子「いや、え、△△がどこかで拾ったとかそういうこと?」
父「うん」
子「え、じゃあ、え」
母「あ、お米、おじいちゃんのところから今日送られてきたんだよ!」
子「ねえ! その、不審者って捕まったんだっけ、結局」
母「えー、どうだったかなぁ、分かんない」
子「なんか心配になってきた」
母「捕まったんだっけ? お父さん」
父「捕まったみたいだよ」
子「は?」
父「昨日の新聞の記事にあったよ」
子「捕まったって?」
母「あら、良かった〜」
子「早く言えよ!!」
母「ねえお米、新米だって、お父さん」
父「そうか」

終わり